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「空と風と星の詩人 尹東柱評伝」を読む 全存在を賭けて、守った民族の志操

宋友恵著、愛沢革訳、6500円+税、藤原書店、TEL 03・5272・0301)

 「若さや純潔をそのまま凍結してしまったような清らかさは、後世の読者をも惹きつけずにはおかないし、ひらけば常に水仙のようないい匂いが薫り立つ」と称えたのは、詩人の茨木のり子だ。20代半ば私は、鶴橋の朝鮮書籍専門店で偶然尹東柱の詩集を手にした。朝鮮にもこんなすばらしい詩人がいたのかと驚き、自分がいかに無知であったのかを恥じいたりもした(無論27歳の若さで獄死したなどとは知る由もなく)。

 尹東柱の詩はやさしくあたかく美しい。人の心の底に「ろうそく一本」となって明かりを灯す。そして、なによりも詩と生が一体となって全存在を賭けて闘い、守り、貫いた民族の志操が私たちの魂を揺さぶる。

 私は彼の作品以外は何も知らない。どのような風土の中で生まれ育ち、どんな人と交わり、時代とどのように向き合ってきたのかを知りたいと思った。「尹東柱評伝」はまさにすべてを叶え応えてくれた。膨大な資料を丹念に集め鋭い分析を加え、現地を何度も訪ね、文献を探し出し、人々の証言から新たな事実を掘り起こす作業は、「詩人の生涯とその詩を通して、私たちが見なければならず、知らねばならないことは何か?」を問い、「真実に近い事実と価値を究明していく」過程そのものであった。そして歴史的事実に即して間違いや誤解を正し、過った解釈や様々な疑問にも明快に答えている(詩「自画像」の背景となった井戸は明東ではなく西小門の下宿近くの井戸であったこと、尹東柱の埋葬地は東山教会ではなく中央教会だったこと等々)。

尹東柱

 私はありのままの尹東柱に会うことができた。温順でものやわらかく優しい反面、必要なときはどんなことであれ積極的に出て行き、けっして退かない強靭な姿が目の前に迫ってきた。とくに彼の人柄はなんと魅力的なことか。弟妹にせがまればソウルの話や歌も教えた。威張ることを嫌う彼は帰省すると、すぐに学生服や四角帽を脱ぎすて、「祖父の麻の朝鮮服をさっと身につけて祖父を手伝い、牛の飼料やにわとりの餌などをつくり、山に牛をつれていく」箇所だけでもキューンとなる。

 彼の深いところから漂ってくる人間的なあたたかさをいまだどの人からも感じたことがないと、幼なじみの文益煥牧師が告白している。

 彼の詩はどの詩を見ても「たやすく書かれた詩」などは一篇もなかった。「時代のようにやってくる朝を」信じ、「与えられた道」を堂々と進んだ。彼の詩の中で童詩は大きな比重を占める。尹童舟というペンネームのロマンチックなこと。彼は詩をもって奪われたものを取り戻そうとし、奪いとろうとするものに激しく抗い、奪われまいと立ちはだかった。

1943年初夏、同志社大学の同級生たちと宇治川に遊びに(前列左から2人目)

 国語の時間にウリマルを一度使えば1カ月停学となり、二度使えば退学になる厳しい状況でも朝鮮語で詩を書き続けた。それは生涯変わることはなかった。朝鮮の独立を固く信じていた彼は1943年、治安維持法違反容疑で逮捕され、1945年2月、27歳の生を閉じた。祖国解放のわずか半年前である。

 尹東柱が逮捕される2カ月前、学友とたのしく遊んだ宇治天ヶ瀬吊り橋に行ったことがある。橋を渡りながらふと立ち止まると、尹東柱が微笑んでいるようで涙があふれた。

 「尹東柱評伝」は「尹東柱を知るということはすなわち朝鮮人を知ること」という熱い思いから、一人の清純な詩人像を歴史の中で見事に描いた著者の真摯な心の書だ。

 私はけっして忘れない。日帝によって殺された最後の民族詩人であったことを、彼が福岡刑務所で何を叫ぼうとしたのかを、暗い過去のように加えられた弾圧がいつでも復活しうるこの国で。

尹東柱が逮捕される2カ月前、学友と遊んだ宇治天ケ瀬吊り橋

 1990年3月、文益煥牧師が北を訪れた際、「序詩」を演説で引用した。彼の心の中では尹東柱はずっと生きていた。

 いのち尽きる日まで天を仰ぎ

 一点の恥じることもなきを

 木の葉をふるわす風にも

 わたしは心いためた

 星をうたう心で

 すべての死にゆくものを愛おしまねば

 そしてわたしに与えられた道を

 歩みゆかねば

 今夜も星が風に身をさらす

(愛沢革訳)

 私はこの詩を深く胸に刻み、あなたと共に「あたらしい道」を歩んでいきたい。

(李芳世、詩人)

[朝鮮新報 2009.4.27]