〈生涯現役〉 元ハンセン病患者、盲目の歌人−金夏日さん |
祖国統一こそ幸せの源 第5歌集「一族の墓」刊行
元ハンセン病患者で盲目の歌人、金夏日さん(82)が第5歌集「一族の墓」を刊行した。
「在日を生きる貧しさ苦しさもみな歌にして書き溜めしもの」 植民地時代の1939年13歳の時に、父を訪ねて渡日。菓子工場で働きながら夜学で学んでいる最中、15歳でハンセン病を発病、多磨全生園に入所。日本海軍軍属として徴用された長兄の戦死。46年、群馬県草津の栗生楽泉園に入るが、49年、23歳で両眼を失明。以降点字を舌で読む「舌読」を学び短歌を創る。ハングル点字も「舌読」によって学び、身に着けた。 在日朝鮮人として、元ハンセン病患者として過酷な運命に翻弄された80余年の半生がこの一冊に詠み込まれている。 8月の終わり、栗生楽泉園に金さんを訪ねると、「遠いところからよく訪ねてくれたね」と何度もねぎらって、同胞としての親しみを表してくれた。 瑞々しい感性
作品には瑞々しい感性で、真っ正直な思いを詠っているものが多い。中でも異彩を放つのは、03年、群馬朝鮮初中級学校の生徒たちが訪ねてくれたときの喜びを詠った「いきがい」と題する作品8首である。
「在日の朝鮮学校生徒教師四十二名の訪問を受く」 金さんは、何よりも朝鮮学校の子どもたちの前で講演をしたことがとてもうれしかったと振り返った。その後、学校から子どもたちの感想文が寄せられた。拉致報道後、通学途中で、「朝鮮に帰れ」などの罵声を浴びせられたり、チョゴリの引き裂き事件に遭ったりした体験なども綴られていたという。 金さんは約70年前、夜学に通っていた頃のことを思い出したという。金さんのオモニは、兄嫁たちがチョゴリを脱いで洋服を身につけても「洋服や和服はなじまない」といつもチマ・チョゴリで通した。その頃、チョゴリ姿のオモニと手をつないで市場に行ったことがあった。
すると、「朝鮮人、朝鮮人子ども」と遊んでいた悪童たちが大きな声ではやしたて、石つぶてが飛んできた。幸い、先生風の紳士が「石を投げたらあぶないじゃないか」と一喝、悪童たちは一目散に逃げていったという。
それ以来オモニに市場に誘われても、「石を投げられるから嫌だ」と言って、拒み続けた。 すると、オモニは「朝鮮人だもん、朝鮮人って言われたっていいじゃないか」と、金さんをにらみつけたという。「あのときのオモニの悲しそうな顔はいまでもはっきり覚えている」と金さん。 オモニは文盲であったが、チマ・チョゴリへの限りない愛着を持っていたと、懐かしく思い返す。戦争中、軍の命令でモンペをはくように言われたが、仕方なく防災訓練などのときは、チマの上にモンペをはいたという。療養中の金さんを訪ねるときも白いチマ・チョゴリを身にまとい続け、帰郷するまでそれを通した気丈な母だった。 「母は私たちを愛したように、深く祖国を誇り、愛し続けた人だった。私が生まれた時には、祖国を奪われ、病にもなり、あらゆる絶望感を味わった。しかし、朝鮮学校の子どもたちには、植民地時代の私たちとは違って、立派な祖国があり、祖国の未来と自分の夢が重なる。それがどんなに希望を抱かせてくれることか。祖国統一の夢もそこに広がっている。本当に朝鮮学校の子どもたちがうらやましい」
「舌読」で得た喜び
金さんのどの歌にも、民族や祖国の統一に寄せる希望が満ちている。 「南北の鉄道つながれし瞬間に多くの拍手と歓声上がる」 病に苦しみ、視力は失っても、常に祖国統一への強い願いを胸に刻んで生きた遥かな歳月。それは「舌読」を修得する血のにじむ努力によって支えられた。「普通なら点字を覚え、社会の動きを把握するのだが、点字を読み取る指に麻痺が起きていて、点字を読むことができない」という大きなハンデを克服しなければならなかった。 金さんは点字用紙に五十音を打ってもらい、舌先で点字を探り読む練習をはじめた。25歳のときだった。薄い点字用紙では唾液ですぐべとべとに濡れてしまい、穴が開いてしまうので、点字用紙よりも厚い古い絵葉書に五十音を打ってもらって練習を続けた。舌先に傷がつき血が出たが、それでも諦めなかった。わずか2カ月でマスターし、ついに「舌読」による初めての歌を詠んだ。 旺盛な学びへの意欲と情熱。ここから新しい世界はどんどん広がっていった。宗教、朝鮮史、東洋史、世界史などの歴史、古今東西の文学などあらゆるジャンルの本を取り寄せ、読破していった。
ハングル点字習得
金さんにとって点字に触れることは、「生きていくために毎日食事するのと同じ糧を得る」ことなのだ。そして、それから4年後、またも猛勉強によってハングル点字もマスター。その後は「春香伝」などの古典文学や民話、歴史を母国語で愛読している。 「古くから他国の侵略を受けながら、民衆の力によって祖国を守り通した民族の力強さ。人々の悲しみや苦しみの上に花開いた豊かな文化の奥深さを知るには、朝鮮語によって書かれた書物を読まねばと思った」とキッパリ語る。 解放後多くの同胞が帰郷したが、ハンセン病の息子を見守るために、東京に残り仕送りを続けた両親。しかし、50年、息子を案じながら父は日本で、母は帰郷し相次いで病死した。 民族と家族が舐めた辛酸を再び繰り返さないためには、祖国の統一を一日も早く成し遂げる道しかないと語る。最近の北南関係の歩み寄りを示す一連のニュースは、金さんの日常を喜びで包んでいる。 「同じ民族だから、仲良く、手を結びあうのが一番うれしい。元気なうちに統一する日が来ればいいな」と破顔一笑した。(朴日粉記者) [朝鮮新報 2009.9.2] |