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〈朝鮮の指揮者の素顔-中-〉 尹伊桑管弦楽団・指揮者 キム・ホユンさん

音楽への「怖れ」と飽くなき探究

 キム・ホユンさん(44)は2008年7月、02年から在籍していた国立交響楽団から尹伊桑音楽研究所管弦楽団へと活動の拠点を移した。「朝鮮の現代音楽を発展させるため」だと語る。昨年11月、音楽交流を目的に訪れたスイスで「朝鮮の現代音楽はヨーロッパと比べてもけっして引けをとらない」と実感した。

未知の世界へ

 「才能ある後輩たちが活躍している。心配ない」

 90年代から2000年代にかけて、朝鮮最高峰のオーケストラである国立交響楽団に新風を吹き込んだキムさんはこう話す。

 「尹伊桑管弦楽団では毎日が発見の連続だ。交響楽団のような大編成オーケストラではわからなかった小編成の魅力に引き込まれている」

 活動は多忙をきわめる。夜の9時、10時まで仕事場にこもる日々が続く。

 「今の尹伊桑管弦楽団には顔となる作品がない。現在その創作に取り組んでいる」

 朝鮮で現代音楽はまだ敬遠されがちな分野だ。

 「朝鮮の管弦楽や交響曲は原曲に歌詞があるため、感情的に理解しやすい反面、現代音楽はメロディーや構成も複雑で受け入れられにくい。クラシックのように演奏効果に感銘を呼び起こすものでもない」

 しかし、朝鮮の音楽はより新しいものを求めていると指摘する。過去のものを踏襲するのではなく、まったく新しい未知の世界を開拓するものだという。その中に身を置く日常について「楽しい作業の日々」だと語る。

努力と才能

 10歳のとき、学校のコーラス部に入ったのが音楽人生のスタートだった。平壌学生少年芸術団の一員として外国公演にも参加した。その後、平壌音楽舞踊大学(現在の金元均名称平壌音楽大学)に進学しチェロを専攻する。

 「途中から指揮に転向した。他の友人たちに比べてスタートが遅かったので、悔しさを感じ恥ずかしい思いをしたことも多かった。思い通りにいかず辞めようと考えたこともあった」

 しかし結局指揮者としての道を選ぶ。84〜89年、国費でドイツ・ベルリンに留学する。

 「最初は朝鮮人のプライドから誰にも負けまいと努力した。そのうち努力を努力と思わないようになった。才能も少しはあったと思う」

 留学先の大学総長から直接指揮を学ぶ幸運に恵まれた。学生時代に、世界の音楽家たちが集うゲーティンゲン国際ヘンデル音楽祭にも参加した。

 祖国に戻ってからは、「70年代の創造気風」といわれる朝鮮管弦楽創作における一大ムーブメントを巻き起こした先輩たちの音楽に対する姿勢に敬服した。

 「寝る間も惜しんで創作に徹し、音楽に対して厳しく真しだ。音を一切逃さず、慢性的になるのを許さない」

 外国で得た技術と祖国で学んだ心。キムさんは「そこに自分の音楽の根がある」と語る。

「まだ足りない」

 いまや中堅となったキムさん。若手指揮者の登場を歓迎している。

 しかし、いち指揮者として焦りの気持ちがあることも隠さない。

 「さらなる高みへ登ろうとするなら努力が必要だ。どんなに忙しくても自分の時間を捻出しなければ。努力をやめることは芸術家として死を意味する」

 音楽に対して常に「怖れ」を抱く。「ときにひとつの曲がどんな武器よりも力を発揮することがある。最近、そんな思いが増している」。

 取材中、「自分はまだ修練が足りない」と繰り返した。

 外国で学んだ彼にとって、朝鮮の曲は外国の曲よりも難しいという。

 交響曲「ピパダ(血の海)」は彼がもっとも影響を受けた曲だ。「何百回と聞いたが、まだ主張したいことをつかみきれていない。かつて『ピパダ』になった祖国の惨状を表現するにはいたっていない」。だから自分なりの「ピパダ」を追求し続けるのだという。

 最後に指揮者としてもっともうれしい瞬間について尋ねた。

 「自分の思い描いたとおりに演奏が流れ、客席との一体感を感じられたとき。そして客席から『ブラボー』の声が返ってきたときだ」(呉陽希記者)

[朝鮮新報 2009.9.30]