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〈脳内出血による失語症者の闘病記-4-〉 「会話」の友を探して

 長野県上田市では、初雪が11月下旬頃だと言われていた。その年は例外で、12月初旬が過ぎても降らなかった。やっと14日の朝方、森や野道がうっすらと白くなっていた。

 8月30日に入院したのに、もう3カ月が過ぎているのには理由があった。11月下旬のある日、一週間に一回診断してくれる担当の内科医が「君は若いし頑張っている。もう少し延長すればどうかね?」と言われたのだ。私は即座に「できたら、そうしてくれますか」と、少し変な言葉で返答したのである。

 その医師の診察は、決まって11時半頃であった。診察は10分もあれば終わり、その後は12時まで朝鮮や在日朝鮮人のことを話しあう良い先生だった。入院を3カ月延長し、さらに1カ月再延長して期末の3月までにしてくれたのは、妻が教員だということを知った医師のはからいであった。

 私は気持ちを切り変えて「少しずつ治そう、現状維持でも良いんだ」と、訓練に励んだ。毎日2時間以上、独自で歩く訓練をしているうちに、車椅子は完全になくなり杖をついて病院内ではどこにでも行けるようになった。新館病棟の温泉風呂にも一人で入れるようなったのだ。また、言語も午後に1時間雑誌を読み、消灯後の9時から10時まで、許可のもとナースの横の小さな部屋で一人で声を出し新聞を読んだ。そのせいか若干だが、あいさつや簡単な文章は口に出来るようになった。でも、長くなる話などは未だできなかった。

 当時の患者の中に、新潟県から来ていた74歳のおじさんがいて、約5年で失語症を完全に治してしまった話を聞いた。彼いわく、「地方新聞に写真とともに載せてくれたんだ。重要なのは字を見る、読む、書くの三拍子を練習すること。とくに怠ってはいけないのは、面倒だけど左手で書くことだ」と教えてくれた。この言葉は失語症の私にとって感動的であり、大きな刺激となった。

 その後の2月から3月にかけて、「会話」の友を探した。その中には日本のNPOの人でロシアのイルクーツクで交通事故にあい、脳挫傷のため治療を受けている若者がいた。彼とは部屋を行き来して会話をした。また名古屋に住み、京都の同志社大学に通うある教授とも親しく会話をした。彼らは治りが早く、退院していくときには70、80%の水準まで回復していた。

 彼らの姿を励みに東京に戻り、日常生活の中でまたコツコツと訓練に努めた。(尹成龍、東京都・江戸川区在住)

[朝鮮新報 2009.9.30]