top_rogo.gif (16396 bytes)

〈脳内出血による失語症者の闘病記-5-〉 介護車に頼らず自力で

 東京での生活は、以前とは少し変わっていった。まず、家の中では杖をついて一人で歩けるし、ヘルパーさんがいれば家の近くでも歩けるようになったのだ。一番うれしかったのは娘たちの成長ぶりだった。長女は専門学校生、次女は朝高生になった。小学3年生になったばかりの三女は学校から真っ先に帰って来て、笑顔いっばいであいさつしてくれるのだ。

 2005年の4月からは週一回、以前通っていた病院のリハビリ科にまた通院するようになった。顔見知りの医師らが多く、「お帰りなさい」と声をかけてくれた。言語聴覚士もその中の一人であった。

 その先生は、私が朝鮮人だと知っていて、「これから半分は朝鮮語でやりましょう」と言ってくれた。私が先生に「朝鮮語、知っているんですか?」と問うと「少しね、わからないところは君に教えてもらえば良いでしょう。失語症は、記憶を取り戻すことが重要なんですよ。さあ、始めましょう」だった。私は、呆気に取られてしまった。

 私が言語訓練に関して一つ増やしたのは、新聞を読むことに加え書くことだった。具体的には新聞の社説や解説、重要だと思える記事を要約して書くことだった。それらの記事が千字でも1500字、2千字でも全て600字ぐらいにまとめてみた。大学ノートの左に新聞の記事を貼り、右に要約する文章を書くのである。当初は時間がかかったが、毎日書き続けた。内容がわからないところもあり、どうまとめるかが難事であった。でも2年ぐらいしていると、徐々に早くなりポイントも欠かさず書けるようになったのである。20冊を超えた大学ノートは今も手元にある。

 医療法の改正が末端の病院まで行き届いたとき、私のように長く罹っている障がい者には身体訓練や言語訓練はできなくなってしまった。病院で会話を楽しんだ友とは会えなくなり、月一回、診察をしてもらうだけになった。

 私はまず、体の運動のためのリハビリセンターを探し、そこに週2回通うようにした。次に先生の紹介で月1回の「失語症友の会」にも入会した。同じ境遇の友と会いたかったのだ。

 私は考えた。リハビリに行くのも介護車に頼るし、「友の会」に行くにも介護タクシーを呼ぶ。これではダメで、若干でも不自由さを解消するため歩く訓練を強化しようと思ったのである。そして、駅をめざして歩く訓練を始めた。(尹成龍、東京都・江戸川区在住)

[朝鮮新報 2009.10.7]