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〈続 朝鮮史を駆け抜けた女性たちJ〉 1万坪の大地主−尚宮朴氏

不自由な一生で得た「自立」

コツコツと貯蓄

宮女の写真(韓国独立運動史情報システムから引用)

 朝鮮王朝時代、宮女は、宮中で勤務する女性という意味の宮中女官や宮中の内の人という意味の宮人とも呼ばれ、通常の呼称は内人といった。すなわち、内人、宮女、女官、宮人は通称であり、実は具体的な名称がそれぞれあった。至密内人、針房内人、生果房内人など、その職務によって名称はさまざまだった。彼女らは皆、早いと4歳、遅いと17歳くらいで入内し、至密だと宮中に入って25年後、その他の房は35年後に宮女の序列では最高位の正5品の尚宮になった(「女官制度沿革」蔵書閣)。尚宮にもその職分による名称があり、保姆尚宮、侍女尚宮など多くの部署があった。各職場には宮女全体を統率する提調尚宮と副提調尚宮がいた。最高尚宮は間違い。尚宮朴氏は、尚宮になるまでの最短25年、最長35年間、実にコツコツと貯蓄に生きその経済力である程度の「自由な生活」を送れたはずだ。なぜか。彼女は土地を1万坪と奴婢一人を所有する大地主だったのだ。

 21世紀の今、女性の中に、土地を1万坪以上所有する者が一体何人いるだろうか。尚宮朴氏は、17世紀の人である。

婚姻許されず

尚宮朴氏が公証を申請した所志

 「宮女たちは宮外で私的に家を買い、財産を管理しない者はいない」(「粛宗実録13」8年8月)

 朝鮮王朝実録にあるように、宮女の多くは貯蓄に熱心であったようだ。生涯婚姻を許されず、寄り添う夫も子どももない彼女らの人生は、経済的な自立を抜きにして考えられなかったということだろう。現代でも、配偶者のあるなしにかかわらず、女性の自立は経済的自立を抜きに考えられない。専門職を持った女性、それが宮女である。もちろん国家から報酬が支給されていたのだ。宮中という特性から利権と結び付き、巨万の富を築いた手腕の持ち主もいたことだろう。だが、尚宮朴氏は、「実録」や「承政院日記」に当時その名が大逆事件がらみで一度も登場しないところを見ると、政治や不正に巻き込まれることなく、その才覚だけでコツコツと巨万の富を築いたと思われる。それを妬む者や、妨害しようとする者など後を絶たなかったはずである。今も昔も、才能や成功に対する理不尽な嫉妬は、人を醜く駆り立てるものである。想像の域を出ないが、そのせいなのか尚宮朴氏は実に慎重に事を進めたきらいがある。

巨万の富築く

宮女廬氏の右手掌と証人のサイン(日本所在韓国古文書)

 朝鮮王朝後期は、家屋や土地などの不動産売買が当事者の間の契約だけでも有効であり、通常多くは契約だけを行ったが、尚宮朴氏は自分名義の不動産購入にあたって売買契約書を交わし、国家にそれを提出し公証を求めた記録が残っている。当時、印章の使用は官庁や官僚だけに許され、一般的には署名が使われた。身分により、両班や良人は署名を「手決」と呼び漢字を崩した文字を使用した。奴婢の署名は左寸と言い左手の指を描いた。女性は「右手掌」と言い、右手の平を押し付けたものだった。尚宮朴氏の申請書は次の通り。

「尚宮朴氏
謹んで所志(申請書)を提出いたします。添付した契約書を精査され、他の例に鑑み立案(公証書)の発行を望むものであります。漢城府での処理をお願いいたします。
順治5年(1648年)6月
戌子年(1648年)11月10日発給
房掌(担当者)ナム(署名)」(「日本所在韓国古文書」国史編纂委員会、2002)

 このとき彼女は、宅地2千坪、田3千坪、畑4千坪を購入している。その13年後、1100坪の畑の購入と管理を、大福(身分は奴婢だが主人の代わりに事務を担当する執事のような者)に任せている。その際の契約書も現存している。

 皮肉なことに宮女という「不自由」な職に就いたことで当時としては得がたい安定収入を得た尚宮朴氏は、その経済的自立の末に「自由」を得ることができたのだろうか。(朴c愛・朝鮮古典文学、伝統文化研究者)

[朝鮮新報 2009.12.4]