top_rogo.gif (16396 bytes)

柳宗黙先生の27回忌を終えて

ありし日の柳宗黙先生

 東京・小平にある民族寺院・国平寺を開いた柳宗黙先生が91歳で亡くなってから今月の12日で26年になった。朝鮮朝末期1893年、朝鮮が武力で日本に併合される苦難の時代に忠清南道天安市で生まれた柳宗黙先生は1919年3.1人民蜂起に出会った後、江原道・平昌にある月 精寺で得度され僧侶としての道を歩み始めた。月精寺は新羅の慈蔵律師が唐から戻り建立した格式の高い寺院のひとつで歴史にまつわる多くの伝説に彩られている。

 人里離れた山奥の太白山脈に連なる五台山・月精寺で柳宗黙先生は寒ー和尚をはじめとする高僧たちの教えを受けながら修行に励まれたが、当時のお寺での生活は並大抵ではなかった。さらなる境地を求めて1930年代に入り日本に渡った柳宗黙先生は京都の東福寺に身を寄せながら花園大学で仏教経典を学ぶ一方、日本で亡国の苦しみに喘ぐ朝鮮同胞のために一生懸命に尽くされた。先生は日本の寺で修行に励みながら格式は高いが荒れていた萬寿寺を借り受け管理するまでになった。 37年に慶南三本山(通度寺・海印寺・梵魚寺)の視察団長として日本を訪れた金九河和尚は、萬寿寺でお昼を取り先生の案内で京都のお寺を見て回ったことを記している(京都萬寿寺午料 宗黙禅師立道中 為吾大衆仏門通 京都風物真如此 万事由人実不空)。萬寿寺は過酷な労働と貧困・差別に喘ぐ同胞たちの心の拠り所であった。

 祖国が解放し、多くの同胞が帰国する一方で日本に残り生活するようになった同胞たちは戦後の混乱期を生き抜いたが、先生は故郷の土を踏むことさえ叶わなかった同胞たちの遺骨や各地の無縁仏を 預かり供養されてきた。萬寿寺の本堂には45年8月24日故郷・釜山に帰るため青森から出発し、立ち寄った舞鶴港の湾内で同胞3725人を乗せたまま機雷に接触し沈没した「浮島丸」犠牲者を祀った大きな位牌が安置されている。

 65年国平寺を開山してから、亡くなる83年まで先生は東京で過ごされたので私もお会いしてたくさんの教えをいただいた。「随所に主と作さば、立処皆真なり」(「臨済録」、どこへ行っても自分が主人公であるということを失わずに、そして、その行くところ行くところで主人公となって自由自在に対応し、また対応できるようにしなさい)、「主体思想」は私の考え方と同じだとお話されていた。また、「平常心是道」(馬祖道一、どこへ行っても修行、当たり前のことを当たり前にしなくてはならない)と諭された。私が結婚のごあいさつにうかがったときには「夫婦がお互いいつまでも尊敬しあえるように、言葉は丁寧に使いなさい」と言われたことを思いだす。歳を召されてからは、朝起きてから寝るまでの生活でも自分の原則を定め行動しないと忘れることがあるからと言って厳しくご自身を律しておられていた。先生の悲願であった祖国統一はまだ達成されていないが、本堂で木魚を叩きながら読経される先生の姿が目に浮かぶようである。(洪南基 会社員)

[朝鮮新報 2009.12.14]