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「人間とは考える葦である」−パスカルの言葉だが、考えることを忘れた人間は、歌を忘れたカナリアにも等しい。もっとひどいのは、思考活動を停止させたがために進歩、発展できる機会を失ってしまったということだろう。敗戦後からの日本社会は、まさにその凝縮ではないかと見間違ってしまう ▼19日は朝鮮学校閉鎖令が実施されてから60年になる日だった。それに先立つ11日、頑強に闘い抜いた神戸、高級学校の創立60周年行事が3千人を超える地域同胞、卒業生、在校生、そして日本市民たちの参加の下、盛大に開かれた。みんなの表情は晴れ晴れしかったという ▼武力を背景にした学校閉鎖という民族抹殺にも等しい罪業、犠牲者を出しながらも守り抜き多くの人材を輩出したその路程はもっと誇っていいものだ ▼日本の侵略、そして戦争責任の尺度を朝鮮・朝鮮人問題の対応に重きを置いた作家の中野重治は当時「日本の巡査がピストルで朝鮮人少年を撃ち殺」し、「少女を傷つけた」事実を告発しながら「日本政府は朝鮮人から税金だけを取って、学校施設のためのすべての便宜を奪っていたのであり、それだから朝鮮人は自分で教育をした」と書いた。彼によると「教科書は見事なできばえであり、それは総司令部によって認められたものである」という ▼驚くべきなのか悲しむべきなのか、彼の指摘から60余年、日本の状況はほとんど変わっていない。民族教育の維持と発展には当時もそうであったように主張し、頑強に闘い、かつ日本市民と手を取り合っていくことが不可欠だ。(彦) [朝鮮新報 2009.10.23] |