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東京大空襲を体験した宋正浩氏の証言 阿鼻叫喚の生き地獄

宋正浩氏は、1930年5月12日、平安北道江界郡立館面雲松洞で生まれた。生前は黄海北道麟山郡麟山邑64班で暮らした

 東京朝鮮人強制連行真相調査団(以下調査団)は2005年12月、東京大空襲で亡くなった朝鮮人犠牲者の遺骨を東京都慰霊堂で数十体確認した。

 その後、シンポジウム(06年)と追悼会(07〜09年)を催すかたわら、北南朝鮮に死亡者名簿を伝え遺族探しを依頼した。09年2月、朝鮮日本軍「慰安婦」・強制連行被害者補償対策委員会(以下対策委)から「体験者が名乗り出た。高齢だが記憶もしっかりしている。直接聞き取るなら歓迎する」とのメールが届き、調査団代表の体調快復後に訪ねることにした。しかしこれが取り返しのつかない後悔を生む。

 同年9月、「10月末に訪朝する。自宅まで案内してほしい」と連絡したところ、対策委から「遺憾だが体験者である宋正浩氏が8月12日、脳出血で死去した」と知らせてきた。腹立たしさと後悔に苛まれながら平壌に行った。そして、対策委に保管されていた宋氏の貴重な生前証言を見た。

 宋氏は帰国後、江界市(慈江道)と沙里院市(黄海北道)の人民委員会に勤務、98年4月(68歳)から年金生活に入っていた。「死ぬに死にきれなかった」宋氏の思い、生前の証言を遺族の諒解のもと全文紹介する。遺族に哀悼の意を表し、故人の冥福を心から祈る。

 「労働新聞」(08年5月25日付)に掲載された「東京大空襲で死亡した朝鮮人犠牲者に関する調査報告書」を読んだ。43年10月に連行され、45年5月まで東京都城東区(現在の江東区)の「東京特殊鋼管株式会社」にいた。45年3月10日未明、米軍の大型爆撃機「B29」が大量の焼夷弾を投下した。体験者の一人として具体的な状況を話したい。

 父親(ソン・ゲサム)は小作農だった。あらゆる苦労をしたすえ、私が9歳の時に亡くなった。私は姉4人、兄3人の末っ子だった。父に似て兄弟全員、体格が良かった。すでに7人の兄と姉が亡くなり私も80歳になった。

 末っ子だけは何としても勉強させようと家族が努力してくれたおかげで、私だけが「国民学校」に通った。母や兄弟たちの期待に応え立派な人になろうと一生懸命勉強し、優秀な成績で卒業した。

 卒業したその年、立館面事務所が卒業生の中から成績が良く体格のいい2人を「養成生」として選出した。日本に行って技術を修め、もっと学べてお金も儲けられるという話だった(訳注@)。

 親、兄弟と別れ異国に行くのは不安だったし怖くもあったが、お金も儲けられ勉強もでき、技術も習得できるということ、とくに「選ばれて行く優越感」からくるひそかな期待もあった。

 江界郡事務所に行くと、平安北道各地から「選ばれて来た」40余人が集まっていた。みな自分より年長に見えた。実際、彼らの平均年齢は19〜20歳、自分は14歳。みなが「背が高いので16歳ぐらいに見える。大丈夫だ」と言うのでためらわず従った。私は「森徳正浩」と呼ばれ、一緒に行った友人は「玉川徳水」と呼ばれた。彼の朝鮮名は思い出せない(訳注A)。

 立館面書記と在郷軍人、そして初めて見る者の3人が引率した。後になって日本から私たちを連れに来た者だとわかった。江界郡から釜山に行った。人員点呼の時、「森徳!」と呼ばれたが馴れないため返答に詰まった私を、男は「この野郎、てめえの名前も知らないのか」と尻を蹴りあげた。

 釜山で一泊した翌日、この男は「これからはいっさい、自由行動を許さない。ここまではお前らが家に帰ると言いかねないから大目に見た。これからはとんでもない」と私たちを脅した。関釜連絡船で約8時間後、下関に着いた。団体作業服に着替えさせられた(訳注B)。

 10月10日に汽車に乗り2日後、東京に着き「宮城」前で誓約式をした後、製鋼所に着いた。製鋼所では、侵略戦争に必要な鉄鋼材を生産していた。5トン電気炉が3基、7.5トン用が1基の計4基があり二日に3回ずつ出鋼した。鉄鋼材は汽車で、汚物と鋼材廃棄物は船ですぐ側の運河を経て海に捨てられた。

 3千余人の従業員のうち、約500人が朝鮮人だった。全羅道、慶尚道から連行された南部出身者と、平安南・北道から連れてこられた北部地域の者たちだった。出身道が違い性格が異なるため、最初はよそよそしかったが次第に仲良くなった。

 私たちは一日12〜14時間、長い時は16時間、甚だしくは18時間も働かされた。しかし、技術は何も教えてくれなかったばかりか、汚物と鋼材を運び出す単純かつ骨の折れる作業だけを命じられた。作業場では監督の監視の目が光り、少しでも手を休めると怒号と鞭が容赦なく飛んできた。故郷を発つ時の約束とは違って、2年間汚物と鋼材運びだけをさせられた。完全に騙されたのだ。宿舎は木造の2階建てだった。1部屋に10人ずつ詰め込まれた。

 作業後、宿舎に戻れば「神棚」の前に正座させられ「良く働いたか? ノルマは果たしたか? 出退勤時間を守ったか?」などと反省を強いられた。反省が足りないと晩飯をくれなかった。

 食事は、平麦の麦飯やおから飯、代用食品のところてん120〜150グラムほどだった。腹が減って働けないと言えば、罰として「神棚」の前に正座させられ反省を強いられた。酷い時は鞭打ちまでするので、無条件で服従せざるをえなかった。

 45年3月10日、米軍の飛行機数百機(当時の新聞では325機と報道していたと思う)が飛来した。東京とその周辺に高射砲が配備されていたが、いくら撃っても命中しなかった。

 焼夷弾と爆弾が落とされたのは木造建物が多かったためだと思う。強風が吹いていたので紅蓮の炎で焼け死んだ人が多数いた。

 当時日本は、「B29はサイパン・グアムから2時間かけて飛来し、2時間爆撃するからその間だけ防空壕にいれば大丈夫だ」と宣伝していた。しかしすべてを焼き尽くす炎と、息もできないほどの凄い煙で防空壕は何の役にも立たなかった(訳注C)。

 夜間爆撃と焼夷弾による火焔で宿舎にいた朝鮮人全員が焼死・水死または窒息死した。工場で作業していた者も爆撃で死んだ。周辺の日本人労働者たちとその家族もたくさん死んだ。

 あの日、夜間交代番だった私は気の置けないリ・キウォン(創氏名=木村永雄、19歳)と2人で、いつものようにスクラップを船に積んでいた。顔をあげて見回すと、工場も周辺もすべて火の海だった。四方八方から身の毛が逆立つような悲鳴といろんな音が聞えてきた。深夜にもかかわらず火災で真昼のように明るかった。私たちのように運河に飛び込んだ者は助かった。

 工場側は千人ほどの労働者が助かったと言ったが信じられない。なぜならば、一緒に行った40余人中、生き残ったのはリ・キウォンと私の2人しかいなかったからだ。平安南・北道はもちろん、全羅道・慶尚道の人も誰一人探し出せなかった。全部死んだと思う。酷い火傷と真っ黒な炭の塊だから老若男女の区別がつかなかった。

 私たちは乾パンをかじりながら製鋼所復旧作業に駆り出された。

 私たちは製鋼所から抜け出し、400余里ほど歩いて千葉県に行った。全羅道出身の60代の朝鮮人に出会い、「食わせて寝かせてくれれば何でもする」との条件で「むつ飛行場」建設土木工事に加わった。

 その人の名はキム・フンリャンだと記憶している。そうこうしている間に8月15日の解放を迎えたので3人で祖国に帰ることにした。10月中旬、下関に行ったが朝鮮に行く船がなかった。10日ほどかけずりまわって、やっと見つけた約50人が乗れる船(密船)で3日後、釜山に着いた。帰りは70余時間かかった。夜の9時頃だった。

 釜山では祖国の同胞たちが私たちを抱きかかえ「九死に一生を得て帰ってきた」と本当に喜んでくれた。多分、息子や夫を待つ肉親の情であったろう。

 彼らの歓迎と手厚い歓待を受けた次の日、汽車で開城へ、開城からは歩いて38度線を越えて金川に着いた。そこから満浦行の汽車に乗り、故郷の立館に帰った。

 齢80に達したが、ウェ(倭)ノムと白黒をつけずには死んでも死にきれない。幼い少年たちを「技術伝習」とか「養成」とか「金儲け」などの甘言で騙し、親の元から引き離し、安い労働力として奴隷のように酷使し、あらゆる民族的蔑視と虐待を強いた日本帝国主義の獣のような蛮行は、万代が経とうとも決して忘れることはできない。

 敗戦後60余年が過ぎても、謝罪と補償を回避し続けている日本当局と企業の厚顔無恥さを強く断罪し、糾弾する。

 強制連行された私たちすべての被害者たちは、日本の歴史的な罪悪を絶対に忘れないし、代を継いでこの怨恨と血の代価を必ずや清算するであろう。(訳・まとめ=李一満、東京朝鮮人強制連行真相調査団朝鮮側事務局長)

【訳注】

 @戦争末期極度の労働力不足を補うべく日本は、朝鮮国内から数多くの朝鮮人を手当たりしだいに強制連行した。とくに「国家総動員法」(38年4月)以降、連行は「募集」「官斡旋」「徴用(徴兵)」と形態を変えながら強制度を増し、最終段階では暴力的になされた。「養成生」は方便であって強制連行に他ならない。

 A「創氏改名」の真の狙いは「朝鮮的な家族制度、とくに父系血統に基づく宗族集団の力を弱め、日本的なイエ制度を導入して天皇への忠誠心を植えつけることである」(水野直樹「創氏改名−日本の朝鮮支配の中で」岩波新書50ページ)。

 B逃亡防止のため。

 C大火災による酸素欠乏で窒息、焼死した人が多かった。

[朝鮮新報 2010.1.25]