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福岡で強制動員者証言集会 「無窮花の会」松隈一輝事務局長の報告

直接対話から得られる和解と交流

 NPO法人「国際交流広場無窮花堂友好親善の会」(無窮花の会)は、第2次世界大戦中、朝鮮から九州に強制動員され過酷な労働を強いられた2人の被害者を招き、「韓日100年平和市民ネットワーク」(100年ネット)と共同で6月26、27日の両日、筑豊で証言集会とフィールドワークを主催した。

「地獄のような生活」

証言をした孔在洙さん(中)と金漢洙さん(右)

 初日、飯塚市の会場では、麻生鉱業赤坂炭坑(飯塚市)に連行された孔在洙さん(86)と、三菱重工長崎造船所に連行された金漢洙さん(91)に強制労働などについて語ってもらい、つづいて日韓の関係者3人に意見発表をしてもらった。

 孔さんは証言に入る前、「65年間、戦争で味わった悔しい思いから、日本に来ることができなかった」と、胸の内を吐露した。孔さんは1943年2月、赤坂炭坑に連行され、労働を強いられた。毎朝5時から12時間にも及ぶ坑内作業で、食事と入浴を終え床に就くのは深夜11時、12時という日々だった。日本の戦況悪化とともに食事がひどくなり、「穀物が一粒もなく、豆粕と大根だけだった。空腹に耐えられなかった。アカザという野草で空腹を満たしたこともある」と振り返った。さらに「脱走したが、捕らえられ、立ち上がることもできないほどに竹の棒で全身を叩かれた。奴隷にされたような、地獄にいるような生活だった」と言葉をつないだ。

 一方、金さんが長崎造船所に連行されたのは1944年8月、そこで待っていたのはやはり、ひどい食事と過酷な労働だった。「いつも空腹だった。サツマイモのつるを海水でゆでてお腹を満たしたこともある。ある日、作業中に足の指を骨折したことがあるが、消毒薬を塗っただけで、作業現場に戻された」

 最後に、孔さんは「韓日は隣国同士だが、歴史的事実を明らかにしないと、真の隣人にはなれない。当時の日本人の監督は、亡くなった朝鮮人坑夫のためにも歴史の証人として証言してほしい」と訴え、金さんは「戦争に勝った負けたが問題ではない。歴史の真実を知り、隣人として友情を築いてゆかなければならない」と語った。2人とも、加害の歴史を直視する勇気を持てと、日本人に言い聞かせているようであった。

 2日目は「フィールドワーク−近代筑豊史の負の遺産を直視する」が行われた。あいにくの雨にもかかわらず、約50人が参加した。118体の朝鮮人無縁仏を安置する無窮花堂(飯塚市)、麻生鉱業吉隈炭坑で亡くなった朝鮮人などをまつった徳香追慕碑(桂川町)、朝鮮人坑夫を野辺に埋葬した日向墓地(添田町)の三カ所を訪ねた。

 雨脚が弱まっていた無窮花堂では献花のあと、韓国から来た女性4人による鎮魂歌が披露された。孔さんは献花しながら「来るのが遅くなりました。申し訳ありません」と、今は亡き同胞に語りかけ、金さんは鎮魂の歌に涙を流していた。

予想を超える反響

集会には予想を超える数の参加者が参加した

 無窮花堂が建立されて今年で10年になる。無窮花堂の維持管理、無縁仏の追悼と遺族探しなどの事業を行う「無窮花の会」では、以前から建立10周年記念事業に取り組むことを決めていた。そこに、知人を介して「100年ネット」から、「『韓国併合』100年にあたる2010年、無窮花堂の建つ地で証言集会を開きたい」という申し出を受けた。年明け、「100年ネット」運営委員長の李大洙さんら2人が飯塚市に来られたのを機に、10周年記念事業の一環として証言集会を共催することで合意した。

 飯塚市で5月23日に開催した「証言集会第3回事前セミナー」における李大洙さんの講演の演題「『韓国併合』100年と日韓(韓日)市民の歴史認識の共有」が象徴するように、証言集会の目的は、併合100年の事実を広く日本人に知らしめ、その上で日本と朝鮮半島の、まずは市民レベルの歴史認識の共有化をめざすことであった。今回、そのための最初の一歩は踏み出せたと言えるだろう。

 証言集会では、資料集を205部用意した。韓国からの参加者が30人を上回ることは事前に把握していたため、受け入れ側としては、それ相応の人数を集めなければ礼を欠くことになると考え、200人強の収容能力をもつ会場を用意した。

 ところがふたを開けてみると、250人を超える人々が参加した。座れない人もいたほどである。いわゆる「動員」を超えて人々が集まった結果だ。証言者への質疑では、次々と手が上がり、司会者と通訳担当は質疑応答に必死に対応していた。取材に訪れたメディアは新聞4社、テレビ5社。朝日新聞と西日本新聞、KBCラジオなどでは事前に集会開催について報じられていた。RKBでは 7月7日夕刻、集会とフィールドワークの模様が特集として放映された。

 「韓国併合100年」について人々の関心を引き出すのに、本集会は少なからず寄与できたのではないだろうか。

シビル・ストーリーを

 6月27日夜、韓国側の20人の投宿先で開かれた交流会でのエピソードを紹介したい。

 日本国籍を持ちながら民団の会員でもあるHさんが、自分の生い立ちと韓国政府の在外同胞に対する教育政策について熱心に語り始めた。Hさんの視線が向けられていたのは、忠清南道教育委員会の議員をしているIさんであった。が、二人の間には言葉の壁があった。通訳を買って出たのは、朝鮮総連のLさんだった。Lさんは飲食も控えて、通訳に集中した。Lさんが通訳を終えると、証言者の金漢洙さんが立ち上がり、張りのある声で「演説」を始めた。朝鮮語を解するものたちの表情にはすぐさま、驚きの表情が浮かんだ。Lさんが今度は、朝鮮語を日本語に訳し始めた。日本語しか解さない人たちにも、驚きは急激に伝播していった。

 「飯塚に来る前、韓国で言われた。総連の連中は鬼だと。私もそう思っていた。だが、今ここにいる総連の人たちは人間であることが、よくわかった。この人たちを守るためだったら、自分は爆発してもいい。命を捨てて自爆してもいい!」

 全員の驚きは、ただちに歓声に変わった。

 筑豊の一角で、市民レベルの朝鮮半島の平和統一が実現した瞬間だった。偏見を捨て、直接対話することは日韓・日朝間の和解だけでなく、南北間の和解にも有効であることを実感した一夜でもあった。

 その夜、私はそのまま宿に泊まった。酔いを残しながらも、実にすがすがしい朝だった。「ナショナル」(国家的)ではなく、直接対話による「シビル・ストーリー/ヒストリー」(市民の物語、歴史)をこそ語り起こしてゆきたいと思った。

[朝鮮新報 2010.7.15]