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新潟で朝・日親善行事 友好、絶えることなく

 新潟朝鮮初中級学校の運動場で9月26日、「ミレフェスティバル2010」(同実行委員会=新潟初中、「朝鮮学校を支援する新潟県民の会」)が行われ、同胞、関係者と日本市民、外国人ら約千人が集まった。年中行事のフェスティバルが開催されるのは、これが13回目。拉致問題による反北朝鮮報道が県民の世論にも影響を与え、一時中断を余儀なくされたこともあるが、近年は、行事が始まった90年代よりも多くの参加者が参加するようになった。

運動の再構築

毎年行われるイベントは、地域の朝・日友好親善の気運を高める役割を担っている

各演目ごとに、おしみない拍手が送られた

 フェスティバルの参加者は、その大部分が一般の市民たちだ。イベントの準備に携わる関係者らは、「地域の朝・日友好運動を再構築するために地道に活動を続けてきた結果」と話す。

 2002年9月17日以降、朝鮮への反感を煽る報道が続き、同胞社会をめぐる政治情勢が緊迫する中、新潟の朝鮮学校周辺には右翼の街宣車が徘徊し、連日のように脅迫電話がかかってきた。ひぼう中傷を書きなぐったメールも後を絶たなかった。

 1994年から催されてきたフェスティバルに賛同を示してきた近隣の日本学校からも参加を見直す声が上がった。関係者の間でもイベントの存続を懸念する声が少なくなかった。

 「朝・日友好運動をどのように立て直していくべきか」−関係者らは、現状打開の端緒を模索し、厳しい状況にあるからこそ「ミレフェスティバル」を再開し、多くの県民が朝鮮学校の現状と生徒の姿を垣間見る機会、朝・日友好の大切さを実感できる場を提供すべきとの意見で一致した。そして、学校関係者と「朝鮮学校を支援する新潟県民の会」をはじめとする有志が中心となり、イベント再開のための活動に乗り出した。

 近隣の家々を回り、ビラ配りをはじめとする広報活動を行った。日本で民族教育を実施する朝鮮学校の存在を積極的にアピールしながら、イベント参加を広く呼びかけた。

 「ミレフェスティバル」が正常どおりに再開されたのは、2006年。それ以来、中断されることなく毎年開催され、朝・日友好親善の気運を高める役割を担ってきた。

新潟初中生徒らによる農楽舞

 フェスティバルで行われている文化公演への日本学校の参加が、近年増加した。2003年には、イベントを通じ交流を深めてきた朝・日の青年たちのネットワーク組織が旗揚げされた。2008年には、同胞と日本人の音楽サークル「ニッコリ楽団」が結成されるなど、フェスティバルを中心とした朝・日友好運動は、具体的な形として成果が表れるようになった。

 新潟初中の玄英昭校長は、「紆余曲折があったが、今日までイベントを継続してきたことに多大な意味があると思う。今後も、日本の有志たちと力を合わせ、地域に根づいた学校づくりに取り組んでいきたい」と話した。

「同じ人間として」

金剛山歌劇団の歌にあわせて、踊りに興じる参加者たち

 フェスティバルの定例化にともない、地域住民の中では「日朝イベントの存在」が徐々に定着していった。1994年の開催当時、600人に満たなかった参加者が現在、2倍ほどに増えている。近年では、実行委員が大々的な動員活動を行わなくても、多くの人がリピーターとして集まるようになった。イベントが継続されるなかで、朝鮮学校と在日朝鮮人に対する地域住民の反応も変化を見せている。

 18歳の頃、新潟に移り住んだ佐々木靖子さん(67)は、以前から在日朝鮮人の存在を知っていた。新潟港から帰国船が出ていく光景を見たこともある。ところが、実際には在日朝鮮人の生活に触れる機会は、ほとんどなかったという。この日、地域の仲間たちに連れられ、初めて朝鮮学校を訪れた佐々木さんは、日朝の学生や、各団体が披露した文化公演を見て、「本当にすばらしい」と目を輝かせた。とくに、朝鮮学校生徒らの演目を見ながら、「異国の地でも、子どもたちが立派に民族の息遣いを受け継いでいる姿に力をもらった。来年も必ず来たい」と話した。

 一方、民族教育の歴史を展示したブースでは、多くの日本の市民が朝鮮学校生徒が使用している教科書などに視線を注いでいた。

 猪俣直樹さん(45)は「初めて見た。言語が違うだけで内容は日本の教科書と何ら変わらないことに驚いた。同じ地域にすむ、同じ人間としていっそう仲良くしていかなければ」と語った。(文と写真・周未來)

[朝鮮新報 2010.10.4]