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〈虫よもやま話-29-〉 自然

 大阪へ着いて実家が見えてくると、私は言い表せない安堵に包まれます。

 それはオモニの手によって家の周りにたくさんの花々が植えられ、丁寧に育てられているからです。

 松山から大阪へ帰る道中は、まさに自然豊かな田舎から都会へと移りゆく光景です。

 そんな中、私の家には「自然」があるのでした。

 普段、何気ない会話の中に、私たちは「自然」という言葉を引用し使っています。

カマキリさんの卵鞘

 しかし、その意味を真っ向から考えて用いる人は少ないのではないでしょうか?

 環境問題がひんぱんに取り上げられる中で、自然を守り大切にしていくことは常識の範疇と言えます。しかし、その守るべき「自然」とは一体何でしょうか?

 地球に存在するものの中から「人工物」を取り除いたすべてだと考える人や、そのすべてにおいても全く手つかずのもの、また人間の意識が創り上げたもの以外を指す人など、答えは十人十色、守る「程度」さえも異なります。

 しかし、今回私が提起したいのはまさに、「自然を考えるわれわれ自身がその自然の中に含められているのかどうか」という問題です。

 もちろん、日々の生活の中で「俺も自然の一部だ」と思い生活をしている人は、ほぼいないでしょう。

 しかし、自然を考える場合、まずは自分自身に問うべきなのかもしれません。「自分の中に自然はあるのか?」と。

 家が見えた時の言い表せない安堵感、それはまさにオモニの中に自然があるのだという安心です。

 生気あふれるわが家の花壇の花々にはチョウやそれを狙うカマキリ、ハチやそれに擬態したハナアブ、そして多くの甲虫類などの「予期せぬ客人」がノックせずに訪ねてきます。

 昨年の秋、自宅のドアのサッシにカマキリが卵を産みつけたとの通報をうけました。

 それを一緒に見ていた2歳になったばかりの姪が、「カマキリしゃ(さ)〜ん!」と話す姿を見てハッとしたのです。幼い子どもがより、自然を心で感じとっているのではないかと。

 カマキリという自然そのものが自分と「等価」で心に映る、そんなことが本当に大切なのかもしれません。

 それでは今年度終わりまで、よろしくお願いいたします。(韓昌道、愛媛大学大学院博士課程)

[朝鮮新報 2010.1.15]