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「高校無償化」 除外はおかしい 日本の識者の声 詩人たちが声をあげた

 「人を傷つけることにためらいを覚えない粗暴な物言いが、この国に横行しようとしています」

 3月7日に関西の詩人有志で出した、朝鮮高級学校無償化除外案に反対する緊急アピールは、このように始まる。詩人たちで社会問題に対しアピールを採択するということは、異例である。だがそれが逆に示しているのは、この社会の最も無力で大人しい存在である詩人さえもが立ちあがらざるをえなかったほど、今回の動きが異様だったということだ。つね日頃たった一人で詩作にいそしむ者たちが、それぞれに違和感を覚えつつも、アピールという社会的行為を行うことに合意したのである。その異例の社会性が評価されてか、詩人たちの意志表示として早速翌朝、朝日新聞社会面に取り上げられた。

 詩人とは社会の危機をいち早く感知する、いわば「坑道のカナリヤ」である。しかしこのカナリヤは無力で繊細で、ぎりぎりになるまで声をあげない。それがついに声をあげたのである。人権や歴史を無視してどんどん事が進んでいく先に、私たちは自由に物が言えない社会を確実に予感した。それ以上に、そうした事態を誘発する政治家やメディアの言葉の汚さ、醜さに耐えられなくなった。そうした言葉はみな、人と人をあからさまに分断するために使われている。それとは真逆に詩人は、人と人との間にゆたかなつながりを創り出そうと、日々言葉の可能性を芸術的に追究している。つまり私たちと「かれら」は、目指す方向性が真逆なのだ。事態の深刻さが極まった3月5日(3月4日に大阪府橋下知事の問題発言が報道された)、私たちは詩という次元で、詩人という立場から、声をあげようと決意した。

 当日の参加人数は9人である。たしかに少ないが、日頃社会問題より言葉の芸術的な側面により関心のある者たちに、複雑な歴史や政治が関わる問題に対するアピールを採択しようと呼びかけたのである。時間の短さも考えれば十分心強い数である。しかも日本の詩人、在日の詩人、朝鮮の詩や文学の翻訳者、歌人と、はからずも多彩な構成メンバーで、膝を突き合わせ語り進める形となった。みなが自分の言葉で、この問題に対するそれぞれの思いを述べ、わからないことは積極的に確認し合った。在日の詩人には、朝鮮学校での体験談を語ってもらったが、美談ばかりでない率直な内容は、日本人の興味をかき立てるとともに、問題を当事者側から想像するためにたいへん役に立ったと思う。時間が押し迫り、寄せられたメッセージを読みあげた後、アピール草案の検討に入った。そこで主催者名などをめぐって議論があったが、課題は今後の糧とすることで合意し、アピールを採択した。アピール文は報道各社、文部科学省、大阪府知事、および学校の所在地の首長あてに送られた。

 紙幅のために全文の引用はできないが、アピールの眼目となる末尾部分を掲げて終わりたい。

 「私たち詩人が紡ごうとする言葉は、読者という他者とのあいだに、創造的な関係の構築をめざして模索される言葉です。そして詩の営みが豊饒な稔りを結ぶためには、さまざまな価値観や歴史観を背負った人々がお互いの存在を認め共に生きる、真に成熟した共生社会を必要とします。民族差別はそのことに逆行し、この国の言葉を、文化を、貧しいものにするでしょう。それは詩を書いている私たちだけでなく、広く表現にかかわる人々の願うところではありません。政策決定にあずかる方々に強く要望します。授業料無償化の対象から朝鮮高級学校を除外するという間違った選択を取らないでください。それはこの学校で学ぶ若者たちの希望を、ひいては未来を引き裂くかも知れない残酷な仕打ちです。彼らは日本社会の一員であり、この国の文化の重要な担い手でもあることを忘れないでください。二〇一〇年三月七日 授業料無償化の対象から朝鮮高級学校を除外することに反対する詩人たち有志」 (河津聖恵・詩人)

[朝鮮新報 2010.3.17]