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「無償化」の対象は子どもたち 丹羽雅雄弁護士に聞く

 朝鮮学校の「高校無償化」除外を煽る論調が見られる。「産経新聞」など一部のメディアが反対キャンペーンを張る一方、「拉致被害者家族会」など一部の団体が文部科学省に対し朝鮮学校除外を求める要請活動を行っている。しかし、それらの主張は誤った法制度解釈と朝鮮学校に対する無知によるものだ。教育の場に政治問題を持ち込む不当な主張もあからさまに続けられている。丹羽雅雄弁護士( 元大阪朝高運動場明渡裁判弁護団長)に話を聞いた。

民族教育における自主性を尊重すべき

−「拉致問題」や日本の対朝鮮経済制裁を理由に、「朝鮮学校に無償化を適用するのはおかしい」とする主張が続いているが?

 「高校無償化」法案は、高等学校などにおける教育にかかる経済的負担の軽減を図り、もって教育の機会均等に寄与するのが目的である。その対象は、高等学校などで学ぶ生徒たち。あくまでも、学校当局(教育施設)は、具体的に給付をする際の代理執行である。

 これは、「一条校」はもちろん、専修学校の高校段階にも無条件に適用される。ただし、各種学校は自動車学校、美容学校などいろいろある。よって、「高等学校の課程に類する課程」というものを一つの条件としている。

 各種学校も、専修学校と同様に外形的、客観的な教育課程が保持されているかどうか、これだけで判断すべき。そこで学んでいる子どもであれば、当然のこととして経済的負担の軽減を図って教育の機会の均等を図るということが、本法の大前提である。

−「産経新聞」8月19日付「正論」(日本大学教授・百地章)では、「教育を受ける権利」や「義務教育の無償」は、日本国民を対象とした「社会権」の一つであって、外国人の「権利」保障には値しないとしているが?

 とりわけ生存権や教育権、社会保障権は「国民」と明文化されている。基本的な考え方は「日本」国籍を有する国民だが、現代的な憲法解釈によれば、外国籍者についても、性質に反しない限りは同等の権利として適用すべきである。

 憲法解釈も国際条約に適合するように解釈しなければならない。「国民」という概念を含め憲法各条項について、国際人権諸条約に適合するように解釈すべきである。それは、今の子どもの学習権を発展させるという考え方や国際的な判断の基準からして、むしろ普遍的な判断基準となっている。

−朝鮮学校の民族教育も保障されるのか?

 日本が加入している社会権規約は、すべての者に対して機会均等であることを求めている。13条2項は、中等教育(高等教育含む)無償教育の漸進的導入を定めている。また同3項は、保護者は子どものために、どの学校に入れるかという選択権を持っており、教育機関も保護者も、自らの学校(民族学校など)の伝統的な文化、歴史、言葉などを子どもたちに学ばせ、発展させ未来につなげていく、学校を設立する自由があると定めている。

 一条校の場合ですら、公的な性格を持つと同時に、私学の自主性の原則(尊重)がある。例えば、キリスト教関係の学校が、私立学校を設立して、聖書を持って授業をやるとことは、自主性尊重なので問題がない。

 民族学校の場合は、民族の問題としてのアイデンティティのコアな部分である言葉、文化、歴史というものを学び承継するということが、自主性として尊重されなければならない。

−「朝鮮学校では反日的な思想教育が行なわれている」との主張があるが、「無償化」制度との関連性は?

 そもそも、「反日的な思想教育」とは一体なんなのか。何ら実証性がない。差別の助長、扇動に近い。科学的、客観的な論述ではない。本件の法の目的、条約適合的な憲法解釈から言えばこうした政治的プロパガンダで判断するという基準そのものが間違っている。非常に恣意的で、敵意を持った主張だ。こうした考え方を教育現場に持ち込んではいけない。

 教育基本法16条1項に「教育に不当な支配をしてはならない」とある。行政は、私学や民族教育における自主性の尊重を前提として教育の外形的、客観的課程で判断すべきだ。もちろん、公費が出されるので、ある程度、財政が適正に組織化されているかどうかはチェックする必要がある。同時に、公益性と自主性という各々の価値基準から判断することがポイントだ。

−憲法89条に抵触すると指摘されているが?

 憲法89条は、「公の支配」に属しない教育事業に対して支出し、利用に供してはならないとしているが、そもそも、これに「無償化」法を援用するところからおかしい。「公の支配」の議論は、もともと教育施設に対する条文だ。教育事業に対して公金等を使う場合の憲法条項だ。ここを間違えると、大きな間違いが生ずる。今回の「無償化」法は、直接子どもに渡すというのが本来の原則。教育施設は、子どもたちのためにお金を預かっているだけ。

 「産経新聞」の「正論」には「わが国の特別監督権が朝鮮学校に及ぶとは考えられない」とあるが、「公の支配」の議論の中にそんなものはない。これ自体がプロパガンダだ。また、「このような違憲の疑いのある朝鮮学校」で学んでいる子どもたちまで税金を支出するなと言っているが、ここには飛躍がある。念を押すようだが、「無償化」は子どもを対象としている。

−朝鮮学校への「無償化」適用に関する橋下大阪府知事の一連の発言(「北朝鮮の今の国家体制と関連しているような団体で学習をする権利まで府は保障しない」など)について

 これも実証的な発言ではない。朝鮮学校は敵対的な国が指導しており、その中核に朝鮮総連がある、そうした外交、政治的に制裁しなければならない学校の子どもたちに税金を渡すのはおかしな話だということが言いたいのだろうが、こんな飛躍的な話はない。

 例えば、高位の高官(石原都知事)の「三国人」発言に対し、国連は人種差別撤廃条約の違反であり、差別の助長、扇動に当たると指摘した。この橋下知事の発言を審査した場合も、同じ判断が下されると思う。

 それなら、なぜ今まで補助金を出してきたのか、どうゆう判断だったのかという疑問も沸いてくる。

−「韓国併合」100年を迎えたが、植民地時代から続く日本政府の朝鮮学校政策について改めて聞きたい

 戦前、植民地支配直後、朝鮮総督府が一番初めに朝鮮人に対して行なったことは「朝鮮教育令」であり、1935年に京都府の「書堂(学び舎)」に対し民族教育閉鎖令を出したという歴史があった。要するに民族を解体して「天皇の赤子」にするという、植民地主義が戦前にあった。

 戦後も、一方では外国人登録上は外国人と扱い、教育の視点では日本国籍だから民族教育を認めないという二元的、恣意的な判断基準を取った。

 戦後のそのような歴史は2つの要素からなっている。ひとつは、戦前からの植民地主義の継続性である。二つ目は、冷戦。冷戦構造が米国中心に構築され、日本がこの枠の中で流れされてゆく中で、48年の阪神教育闘争、52年の一方的な日本国籍喪失、65年の文部省事務次官通達と進んでいった。民族教育を日本社会から完全に封鎖することを狙った政策だ。それでも朝鮮学校は踏ん張ってきた。65年 (45年前)のことなのでもうその法的効力はないが、国の政策運用は変わっていない。未だかつて教育制度に何の保障もしていない。

−日本における朝鮮学校の存在意義について

 第一に、日本の植民地支配というなかで奪われた言葉、文化、歴史などのアイデンティティを、これ以上奪われないよう、新しく朝鮮民族を構成する子どもたちの尊厳を守るため、朝鮮学校は運営されてきたし、保持されている。これからも尊厳ある生き方を子どもたちにしてほしいという教育施設だと思う。

 第二に、未来志向的に言うと、日本にはいろんな国の子どもたちが日本に来ているし、これからもっと増えるはずだ。外国人学校の子どもたちは、その国の国籍を有している子だけではない。国籍も多様化しているし、民族性も豊かになっている。朝鮮学校が、文化や言葉をカリキュラム、制度として維持しているというのは、日本の多文化、他民族の子供たちを育んでいく上で先導的な役割があると思う。新しい外国人学校、公私立で学ぶ子たちもいる中、朝鮮学校が厳しい弾圧を受けながら、育んできた民族教育の中身は、正しい社会の方向性を示す側面があると思う。

−今後の展望について

 ブラジル人学校、中華学校、そして日本学校などとの交流を活発化し、その中で相互に学び合い、理解し合うことが大切。マイノリティの外国人学校同士が繋がり合っていかなければならない。その中で、朝鮮学校の歴史や現状を他の学校の子どもたち、保護者にも知ってもらい、同時に、朝鮮学校からも門戸を開いて他の子たちと学び合う。そうゆう機会が必要だと思う。(姜裕香)

[朝鮮新報 2010.8.27]