大渓島干拓地建設 「秘話」 地図を変えた広大な干拓地 |
朝鮮の干拓地開墾史上最大となる大渓島干拓地が完成し(6月30日に竣工式)、一つの郡の耕地面積に匹敵する8800ヘクタールの農地が近く生まれる。大渓島干拓地の完成で、西北辺海岸の地図表記が変わったほどだ。 大渓島干拓地は、平安北道の塩州郡と鉄山郡を結ぶ海岸に浮かぶ多獅島から大多獅島、加次島、ソヨンドン島、大渓島、小渓島、鉄山半島まで防潮堤を築き、作られた。 干拓地建設指導局のムン・ボンリョン局長(62)は「大渓島干拓地建設は、西海閘門建設(1986年完工)にも匹敵するほど難しくぼう大な工事だった。35里(14キロメートル、1里=400メートル)におよぶ大渓島干拓地堤防は、どんな災害にも微動だにしない」と胸を張る。 干拓地開発で得られた土地の大部分は、農業生産に利用されるという。来年以降、干拓地の稲作面積を年々広げていく予定で、近い年月のうちに7200ヘクタールになる。 現在、自然排水と人工的な排水によって海水を海に返し、干拓地から塩分を取り除く作業が行われている。大渓島干拓地の農地に必要な淡水の供給問題は、白馬―鉄山水路を完成させたことによってすでに解決している。 自然災害にも屈せず 大渓島干拓地建設は、1980年代初期から本格化した。 84年に1次的な防潮堤工事が終えられ、その年の11月から新たに耕された農地で稲作が始められた。広大な開墾地での農作業は、飛行による上空からの種まきと肥料散布を実現させた。 朝鮮では80年代、各地に30万ヘクタール(朝鮮の全耕地面積の15%)の干拓地を開墾するという国家プロジェクトが示された。大渓島干拓地建設もその一環であり、現在、西海岸ではさらに別の干拓地建設も推し進められている。 防潮堤工事は84年以降も続けられた。 しかし97年8月、過去最大級の自然災害が発生し、甚大な被害に遭うことになる。最大風速秒速32メートルがもたらした高さ5メートルの津波が18時間も持続的に押し寄せ、建設途中だった875メートルの外郭堤防4カ所を破壊した。この被害により、防潮堤工事は建設初期よりも難しいものになった。 また開墾された農地も、海に沈み、隣接する郡の農地でも、塩気を含んだ海水の被害が広がった。 幾度の自然災害によって厳しい経済状況に置かれながらも、建設者たちはあきらめなかった。機材も不十分な状況で、復旧作業は主に人海戦術≠ナ行われた。 堤防1メートルを積み上げるのに要する石材は4千m3。当時、トラック運転手たちは一日平均220キロメートルを走行し、建設者たちは石材を背中に背負ったまま40キロメートルの道のりを踏破した。 被害に遭ってから8年後である2005年6月に被災前のレベルを取り戻し、2007年7月までに2号防潮堤(加次島―ソヨンドン島)、4号(大渓島−鉄山半島の小渓島)の工事を終えた。建国60周年にあたる08年には1号(多獅島―加次島)を完成させ、最大規模を誇る3号防潮堤(ソヨンドン島―大渓島)約4.9キロメートルが今回完工したことで、大渓島干拓地建設の全工程が終了した。 干拓地の耕地では、土に塩分が残っている影響から、開墾1年目の米生産量は1ヘクタールあたり2〜3トンにすぎないが、4〜5年が経つと7〜8トンにまで増産されるという。大渓島干拓地では、97年の被災前まで1ヘクタールあたり11トンを収穫していた実績を持つ。 「干拓地の米は、本当においしい」 収穫された米が配給されている平安北道の市民たちにも評判だ。 大渓島干拓地建設は朝鮮国内のモデルケースとなり、その成果と経験は、全国に広がっている。 [朝鮮新報 2010.7.21] |