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若きアーティストたち(73)

伽耶琴奏者 韓英政さん

 初級部高学年のころはバスケ部に所属していた。習い事は4歳からピアノのレッスンを受けていたが、人一倍音楽に興味があるというわけではなかった。

 ある日、姉が通っている伽耶琴(朝鮮の琴)のレッスン場について行った。小学5年生の頃だった。はじめて伽耶琴の演奏ぶりを見た瞬間、幼心にも鳥肌がたったという。すっかり心を奪われ、それ以来、韓さんもそのレッスン場に通うようになった。

 高校2年の夏、東京朝鮮中高級学校の民族管弦楽部に入部。同部に所属し万寿台芸術団など朝鮮の代表的な楽団のCDを聴いていくうちにさらに民族音楽の世界に魅了されていった。卒業後は音大に進学し、ピアノを専攻しようと思っていたが、将来の夢は、伽耶琴一筋で生きてゆくことに変わった。

 高校を卒業したその年、2002年8月に在日本朝鮮文学芸術家同盟(文芸同)が朝鮮で行う夏期講習に約1カ月間参加した。03年5月、金元均名称平壌音楽大学に入学し、伽耶琴の第一人者・韓東烈先生に師事。1年かけて習う内容を2カ月間で習得しなくてはならず、毎日朝から晩まで徹底したマンツーマン教育を受けた。授業科目は朝鮮音楽史、和声学、演奏原理、朝鮮音楽芸術論など理論的な授業も多く、技術練習は最後の1講義だけ。そのため夜は寝る間も惜しんでその日の課題や楽器練習に励んだ。日本に帰ってきた後も秋にある進級試験に向けて、ばく大な量の課題とレッスンに明け暮れた。

 4年間の通信教育を受ける間、つらかったことは1つや2つではなかった。

 今まで日本で培ってきた技術は、韓先生の前では何一つ通用しなかった。厳冬になると暖房のない練習室はマイナス20度までさがる。そんな環境の中でも現地の学生たちはすばやく指を動かし、美しい音色を響かせる。「3、4歳の頃からあの環境で訓練しているから、僕とは基礎からして違う」。技術の壁にぶつかり精神的に追い詰められ、伽耶琴の魅力さえ見失いそうになるときもあった。しかし「同胞社会の中で民族音楽を守り、さらに発展させるためにもここまで来てあきらめられない」と、必死に自分自身とたたかい続けた。

金元均名称平壌音楽大学で韓東烈氏に指導を受ける韓さん

 音大を卒業した後も、平壌に通い続け技術をみがき、今年2月24日に朝鮮で行われた「2.16芸術賞」の本選でみごと3位に入賞した。音大を卒業すると同時に、その卒業生だけがもらえる「共和国演奏家資格」も得た。「4年間つらく苦しい中でも頑張った努力が認められた。そして卒業後も練習をつみ、権威ある賞を受賞できたことに心から喜びを感じている」と晴れやかに語った。

 今日までの8年間、何不自由なく楽器に没頭できたのは、他でもない両親のおかげであった。「親の助けがあまりにも大きかった。はじめは音楽の道へ進むことに反対だった父も、バイトをする時間があるなら1時間でも2時間でも練習しろと励ましてくれた。精神的にも経済的にも支えられた分、雑念を持たず楽器に集中することができた。感謝してもしきれない。決して1人で歩んできた8年間じゃなかった」。

 また、大学の4年間、楽しいときも辛いときも、常にそばで支えてくれた指導員の宋哲均さんへの深い感謝の気持ちを語る。「4年間、宋さんがいたから耐えてこれた。寝食を共にし、ときにけんかもしたけど、困ったときにいつも励ましてくれた」。韓さんにとって、宋さんは兄のような存在だ。

 「今、もっと上手くなりたいという思いよりも、長い間、祖国の恩恵を存分に受けた者として果たすべき義理を心に刻んでいる。祖国が育ててくれた音楽家として、1人でも多くの同胞たちに祖国の温もりを伝えていきたい」と、力強い決意を語った。(尹梨奈記者)

※1983年生まれ。埼玉朝鮮初中級学校、東京朝鮮中高級学校卒業。01年在日朝鮮学生中央芸術コンクール、民族器楽・独奏部門で金賞受賞。現在、文芸同所属。今年11月17日(水)にさいたま芸術劇場で帰還リサイタルを行う予定。

[朝鮮新報 2010.6.14]