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東日本大震災 西神戸から 被災同胞にメッセージ

兵庫の同胞たちは救援物資を集め、被災地・宮城に向かった(17日)

 阪神淡路大震災(1995年)を経験した兵庫の同胞たちは、東日本大震災発生後、すぐに救援運動に乗り出した。17日には、総連本部が設置した同胞支援対策委員会の支援隊が義援金とマイクロバスいっぱいの救援物資を東北朝鮮初中級学校に届けた。

 財源を担ったのは西神戸商工会。金永勲会長(73)は同胞たちの一致した思いを代弁した。

 「一刻も早く被災した同胞たちの力になりたい。今こそ恩返しを」

 震災の恐怖、悲しみ、不安、そして復興の経験を知るからこそ伝えたいものもある。

 総連神楽池田分会長の金光雄さん(42)は、16年前の震災で叔父を亡くし、自宅と工場を失った。がれきの下から妻と幼い2人の娘とともに命からがら脱出すると、震災直後の2日間は車の中で過ごし、その後は避難所を転々とした。しかし、「このままでは先が見えない。今後の生活を考えよう」と心を強く持ち、家族を大阪の妻の実家に送った。自身は仕事の再開に力を注ぎ、2カ月後に工場を稼働させた。

 「家族も家も仕事も一気に失うと、生きる希望をなくしてしまう。東北の被災者にとっては、今が一番しんどい時だと思うが、とにかく希望を持ってがんばってほしい。私たちも助けてもらった恩返しをできるかぎりしていきたい」

生きてこそ

 女性同盟支部顧問の金光代さん(69)は、「命さえあれば何とかなる。希望を持ってほしい」と被災同胞にメッセージを送る。

 16年前の震災では自宅と自身が営む焼肉店、夫が経営する会社、すべてが倒壊した。同胞たちが避難生活を送った西神戸朝鮮初中級学校(当時)で寝泊まりしながら、日中は店の前で焚火をして過ごした。幸い無事に残った冷蔵庫の中から肉を取り出し、スープを炊いて通りがかる人たちに無償で配った。

 金光代さんもやはり、生活のことを考えて営業を再開することに力を注いだ。当時の商工会総務部長の手助けを受けながら融資をしてくれるところを探し回った。そして5月に店を再開することができた。一家は2年間、プレハブで生活した。

 「震災の地獄のような光景はいつまでも忘れられない。多くの負債を背負ったが、ガッツで乗り越えてきた。生きてこそ、良いこともある」

 そう言って、朝鮮新報に掲載された孫の記事を財布から取り出し、うれしそうに見せてくれた。

今こそ恩返しを

 総連支部副委員長の康孟徳さん(59)と女性同盟南神分会長の秋蓮順さん(53)夫妻は、16年前の震災で家に住めなくなったため、子どもたちを岡山の親類にあずけた。しかし、自分たちは西神戸にとどまった。

 康さんは工場立て直しのために奔走した。秋さんは西神戸初中で寝泊まりしながら炊き出しを手伝った。「各地の同胞からの救援物資を積んだバイク隊が学校に到着した時は涙が止まらなかった。祖国から慰問金が送られてきたときもみんな泣いた」と振り返る。

 だからこそ、夫妻は被災地の朝鮮学校や本部などの被害状況を気にかけている。

 「ウリハッキョや会館は同胞生活の拠点。これを守るため、組織を中心に一致団結しなければならない。今すぐにでも駆けつけて被災地の同胞を励ましてあげたい」

 康さんは「自分はウリハッキョに育ててもらった。子どもたちも震災の時に岡山のハッキョで助けてもらった。その時の恩を返したい。校舎を建て直すならお金も協力したい」と語る。

 夫妻は「あの時、組織があったから支援を受けられた」と、いま被災地にいる同胞のための救援活動を呼びかけている。(泰)

[朝鮮新報 2011.3.23]