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東日本大震災 現地から届けられた声 試練、必ず乗り越える

 出張先の青森から仙台へと帰る途中、震源地に近い宮城県北部の高速道路で地震に遭った。事故はなかったが「震度7、宮城沖」という速報を見て危機感を強くした。

 携帯電話はつながらず連絡がまったくできない中、何よりも同胞の安否確認が重要だと思い、付近の同胞宅を訪問した。幸い、会うことのできた同胞たちにケガはなく、とくに一人暮らしのハルモニの無事を確認できたときはとても安心したが、建物の被害は深刻であった。

対策委員会が設けられたウリハッキョで活動する朝青員ら(左端が筆者)

 翌日から総連宮城県本部の緊急対策委員会が本格的に始動したが、すべてのライフラインが遮断された中、まずは同胞の安否確認と物資調達に集中した。

 当初は、不安と焦りが募ったが、何かできないかと対策委員会が設けられたウリハッキョに自発的にやってきた朝青のトンムや同胞たちの姿を見て大きな力を得た。みんなの力で必ず宮城の同胞社会を復興しよう。そんな気持ちで一丸となり活動が始まった。

 震災から4日目、甚大な被害を被った沿岸地域の同胞宅を訪問した。戦争のあとのような惨状に言葉も出なかったが、一人また一人と同胞の無事を確認する過程で被災者たちのために力を振り絞っていかなければならないと強く感じた。

 しかし、一刻も早く同胞を救援しなければならないのに物資がない。そんな状況を一気に変えてくれたのが日本各地の朝青員や同胞たちが送ってくれた救援物資だ。これでいける、現場の活動家たちはいっそう奮起した。震災7日目からは同胞宅への救援物資配布が始まった。

 震災10日目には近隣の八木山中学校で対策委員会による炊き出しが行われた。同胞のみならず日本の市民にも呼びかけて、ウリハッキョのある八木山地域で復興の気運を盛り上げていこうとの思いを込めての炊き出しであった。

 朝青は、「ウリハムケ(共に)がんばろう!」とスローガンを掲げた。被災地であってもそこに朝青員の明るい表情があれば同胞たちも安心できるし、そんな光景の中ではきっと日本の市民たちとの協力関係も築けるはずだ。朝青班長たちと協議し、すべての朝青員と連絡をとった。当日は20人を超える朝青員が精力的に活動した。

 たくさんの同胞と日本の方々が足を運んでくれ、約400食のスープ、おにぎり、牛乳、キムチがあっという間になくなった。「すごく美味しかった」「キムチを食べて元気になった!」−その場が近所の震災後初の集いの場になり、久しぶりに再開した住民が抱き合うシーンもあった。日本人のあるおばあちゃんは、近くのスーパーで孫のために並んで買ってきたオムツを「使ってください」とその場にこっそり置いて帰ったりと、スープを飲む以上に心温まるものがあった。

 昨年のサッカーW杯の応援のために作った赤いTシャツを着て元気良く働く朝青員たちの姿は、震災前にウリハッキョの運動会や同胞行事で活躍したあの時と変わりなかった。

 震災の傷は大きいが、朝青員たちの心は折れていない。それどころか地域社会の復興のため、自分ができることを全力でやろうと燃えている。前途は多難だが、自分の役割を自覚する朝青員がいるかぎり、震災前を凌ぐ活気に満ちた同胞社会を必ず作れるはずだ。

 震災から2週間が経ち、その思いをよりいっそう強くしている。(朝青宮城県本部(兼朝青東北地方委員会)委員長 金成吉)

[朝鮮新報 2011.3.23]