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東日本大震災 岩手・沿岸地域同胞を訪ねて 「一歩でも前に」

地震、津波、火災で壊滅的被害

高台から見下ろした大槌町の様子

 「だいぶ道も整備されて車も通れるようになった」

 沿道にうずたかく積まれた瓦解した建物の残骸を横目に、総連緊急対策委員会岩手県本部の崔成守委員長(県本部委員長、49)がハンドルを切る。

 3月26日、岩手県沿岸部の大槌町。町は津波に飲まれた後、火災が発生し炎上した。震災から2週間が過ぎていたが、道路が「整備」されているようには決して見えなかった。それでも震災直後とは比べようもないという。

 高台にある城山体育館で避難生活を送る河元一さん(56)は、対策委メンバーの顔を見ると、ほっと一息つくように笑顔を見せた。営んでいた焼肉店兼自宅は、跡形もない。日本各地の同胞から届けられた救援物資を受け取り感謝していたが、「今はまだ何も考えられない」というのが本音だ。

命を救った直感

張英敏さんの店舗兼自宅があった場所。津波によって跡形もなく流された

 この日、岩手県沿岸地域に暮らす同胞らを訪ねた。釜石市から大槌町に、再度、釜石を経て大船渡市へと車を走らせた。対策委メンバーらが沿岸地域に入るのはこれで4回目だ。

 対策委では、震災発生の翌日から盛岡市内の同胞宅を回って安否を確認し、県庁で緊急車両許可を得ると、14日には沿岸地域を訪ねた。それまで総連県本部が把握していた同胞に犠牲者がいないことが確認されると、対策委メンバーらは胸をなでおろしたという。

 この間、北海道、青森、秋田の同胞らが直接訪れ激励してくれただけでなく、日本各地から大量の救援物資が届けられた。

 内陸部の盛岡市から2時間半、釜石に入ったのは午前10時20分過ぎだった。無情な寒風が容赦なく吹きつける。断続的に降る雪、道路上に設置されたデジタル温度計は、「0度」を表示していた。

 大槌の自宅から釜石市の知人宅に身を寄せていた柳政国さん(65)。透析治療のために釜石の病院に向かう準備を急いでいた時に、これまで感じたことのない揺れに襲われた。数十分後には、迫り来る津波におびえながら必死に車を走らせ、避難所となっている小学校へと急いだ。しかし、「直感というか、ここは危ないと感じた」。より高台へと逃げ、見下ろした光景は脳裏に焼きついたままだ。「すべてを押し流す津波の『ゴー』という音、流された家と家がぶつかってバチバチと火花が散った。避難誘導されていた小学校も津波に飲み込まれた」。

 経営するパチンコ店も自宅もすべて流された。それでも、「そろそろ動き出さないと」。柳さんは小さな一歩を踏み出そうとしている。

「やるしかない」

 「ここです。店舗と自宅があった場所は」。張英敏さん(40)が指し示した場所には、うつろな空間が広がっていた。大船渡湾から2キロメートルほどにあった焼肉店兼自宅は、跡形もなく津波にさらわれた。「これほどきれいに流されると、涙も出なかった」。海岸沿いでは、自衛隊や警察による行方不明者の捜索が、この日も続けられていた。

 家族は県外に避難させたが、張さんは避難所にとどまった。「従業員の安否を確認したかったし、少しでも子どもたちとの思い出の品を探したくて」。幸いにも従業員の生存も確認された。

 「あの災害の中、みんなが生き残っていたことだけでも良かったと思っている。生まれ育ったこの町を離れたくはないが、家族を養っていくためにも、県外に出ることも含めて、できることをやっていくしかない。後ろを見ていてもしょうがない。こうなったらやるしかない」。張さんは決してくじけていなかった。

 大船渡に着いた対策委メンバーの車に同乗し、道案内を務めてくれた張さんは、「ガソリンがない中でも、どうにか訪ねてきてくれることが本当にありがたい」と感謝の気持ちを口にした。

 そして、メンバーらがビデオカメラに向かってメッセージを頼むと「全国の同胞たちが支援してくれて、祖国からは見舞金まで送ってくれた。本当に感謝している。厳しい状況だが、必ず乗り越えてみせる」と、力強く語った。

 帰路の車窓の風景は、すでに暗闇に覆われていた。「今後、中長期的に支援するため同胞たちの生活基盤を取り戻す対策を考えなければならない。まずは、行政が行う補償や仮設住宅入居などで、国籍による不利益が生じないようにしていく」。崔委員長の言葉だ。(鄭茂憲)

[朝鮮新報 2011.3.31]