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〈続 朝鮮史を駆け抜けた女性たち27〉 したたかな素顔−淑嬪崔 氏


王を産んだムスリ

粛宗との出会い

淑嬪崔氏の墓碑

 朝鮮王朝後期の儒生李聞政の著書「隨聞録」には、次のような件がある。

 夜中、宮中を散策していた第19代王粛宗は、ひときわ明るい光が漏れてくる宮女の部屋に目をとめた。中を窺ってみると、供物を用意しその前にろうそくを立て、何かを一心に祈っている宮女の姿があった。

 「何をしているのだ」

 彼女は王の問いにはすぐに答えず、こう言ったという。

 「私は前王妃様(仁顯王后)の身の回りのお世話をする婢でありましたが、王妃様にはとても可愛がっていただきました。明日がお誕生日なのに、西宮に廃されておしまいになり、御自ら罪人として食事をなさらず…私は悲しくて、王妃様がお好きだった物を用意し、万が一にも届けて差し上げることができないので、こうして私の部屋で祭祀を行っております…」

 その言葉に王は大いに感動し、忠誠心あふれる彼女の「優しさ」に打たれ、その日から彼女―後の寵妃淑嬪崔氏を召し、ほどなくして身ごもったという。それは1892年、仁顯王后が宮中から廃され、張禧嬪が朝鮮王朝初の宮女出身の王妃でいる時であった。

第三の勢力

「隨聞録」の原本

 彼女は一説には、ムスリ(宮女の身の回りの世話をする婢、水汲み女)、あるいは宮中のお針子であったという。そんな身分の低い彼女が、夜中、突然王が自分の部屋の戸を開け、「何をしているのか」と聞かれてさして驚きもせず、まず「何をしているのか」答えもせず、自分が誰であり、現在当の王によって廃されている「罪人」である前中宮のために祈っていると、ひるみもせず答える様は驚きである。普通は驚きと畏れのあまり、なかなか言葉が口をついて出てこないものである。命にもかかわることだ。ところが淑嬪崔氏は、まるで事前に王が現れるのを知っていたかのような、落ち着いた答えぶりである。

 無謀にも思えるこの態度は、実は彼女の大胆な性格と、政治的な判断ができる聡明さを物語っている。ドラマなどで描かれる「性格の良さ」から出た言葉ではないだろう。

 当時粛宗は、派閥のバランスをとるためにやむなく廃した前王妃の待遇について、政治派閥である西人たちから突き上げられていた。西人と相対する派閥である南人への権力の集中も、そろそろ目に余る状況になっていた。氏素性について諸説ある淑嬪崔氏であるが、どの記録にも彼女が孤児であり、仁顯王后閔氏の実家に世話になっていたとある。閔氏はもちろん西人である。淑嬪崔氏は、恩のある西人を助け、自らが第三の勢力になろうとしたのかもしれない。

VS張禧嬪

第19代王粛宗と淑嬪崔氏の出会いを記録した「隨聞録」の一部分

 「随聞録」には、張禧嬪が妊娠した淑嬪崔氏をしたたかに打ち、縄で縛り、甕を被せ、突然訪れた王の目をごまかそうとしたがばれてしまい、王の寵愛を失ったと書かれてある。

 この事件が契機になり、南人と西人の権力闘争が激化したともある。あげくに南人は西人の前王妃復位陰謀説を告発し、西人は南人の淑嬪崔氏毒殺説を主張し始める。

 ここで、淑嬪崔氏は直接王に決定的な証言をする。南人である張禧嬪が自分を毒殺しようととしたのは事実であると。また、前王妃が病に夭逝したのは張禧嬪が呪いをかけたからだと、王に証言する。

 真相は、実はわからない。

 だが、この2つの証言が力を持ち、粛宗は南人をすべて粛清するに至る。粛宗をめぐる3人の女性の「闘い」は、淑嬪崔氏の圧倒的勝利で幕を閉じることになる。

 記録が事実なら、あまりにも自分の感情に正直な張禧嬪は、粛宗の王権確立の道具として利用され自滅し、仁顯王后閔氏もまた、名門すぎるその出自の「建前」の前に自滅したといえる。

 ただ1人、何の後ろ盾も持たない淑嬪崔氏は、ムスリ、あるいはお針子という低い身分でありながら、感情を表に出さず、静かで口数が少ない注意深い性格を武器に、淡々と注意深く、あるいは時に大胆に、生き抜いたと言える。

 彼女の産んだ子は後に王になる。「賎民」の子が、王になるのだ。(朴c愛・朝鮮古典文学、伝統文化研究者)

[朝鮮新報 2011.4.7]