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若きアーティストたち(79)

何度でも聴きたい魅力の演奏を目指し 「心動かす美しい音色作り」

ピアニスト 朴成姚さん

 幼い頃から歌うことが大好きだった。曽祖父母、祖父母と共に暮らしていた頃は、食卓の場がステージとなり、歌って踊って毎晩大賑わいになる。家に帰ってきてはウリナラの芸術団などのビデオに釘付けになり、何度も巻き戻しては繰り返し見入っていた。

 3歳になった頃、一つ年上の姉についてピアノ教室に習いに行った。週に1度のレッスンに通い初、中、高と部活に入らずピアノに没頭した。

 練習漬けの毎日が嫌になり、やめたいと思うときもあった。練習と遊びの切り替えがうまくできず、友だちと出かけてもピアノのことばかり考えてしまう。しかし、練習が嫌なだけで、ピアノが好きという気持ちに変わりはなかった。

 高級部では、在日本朝鮮学生ピアノコンクール、日本の学生コンクールでは権威の高い全日本学生音楽コンクールにも挑んだ。また、短期でウィーンやフランスへ留学もし、技術向上に向け自らチャレンジの場を増やしていった。芸術の本場で吸う空気、観るもの聴くものすべてが朴さんを刺激した。厳しいレッスンの日々、公開授業での講師たちによる演奏、美術館などにも足を運び、豊かな芸術の世界に浸った。

 卒業後は、フェリス女学院(神奈川県横浜市)の音楽学部に入学。同大学では、東京芸術大学の北川暁子教授に師事した。日本のクラシック界にその名を馳せる同氏を求めて大学の門を叩く学生は多い。朴さんもその1人だった。

 しかし、3年にあがりスランプにぶつかる。師の遠い背中を必死で追うあまり、真の目標を見失い、いくら練習しても上達感がなく何もかもが嫌になってしまった。

 そんな迷いの日々を過ごす中、ある日ふと階段から足を滑らせ、全治6カ月の骨折を左手首に負ってしまった。ピアニストとしては致命的なケガだった。

昨年12月に開かれたソロリサイタルでの演奏

 「正直はじめは練習できないことがうれしかった。でも1カ月ともたなかった。ピアノから離れることでそれまで心の中にあった葛藤や苦しみがすっと消え、やっぱり自分はピアノが好きなんだということにあらためて気づくいい機会だった」と朴さんは当時を振り返り、晴れやかに話した。

 卒業後、同大学の大学院へ進み受講する傍ら、個人のレッスン教室や、出張授業、学校でのクラスレッスンなどを掛け持ち、多いときには30〜40人の生徒を受け持つようになった。多忙な日々の中にも「時間は作ればいくらでもある」と、一日のスケジュールを分刻みで組み、誘われた演奏会にもほとんど出演した。

 昨年12月には、地元の北九州で初のソロリサイタルを開き好評を博した。「本当に美しいものは人の心を動かす」と、一つひとつの音色作りに何よりも力を注いだ。「ため息が出るほどきれいで優しい、品のある音、何度聴いても、もっともっと聴いていたいと思われるような音を奏でたい」。

 横浜での10年間、朝青支部や大学で出会った多くの仲間たちに支えられ、今日の自分がいる。そのなじみの深い横浜で5月から新しい家庭を築きながら、演奏活動と並行してレッスン教室も開き、演奏家、指導者として新たなスタートを切る。

 「昔から『ピアノは30歳まで』と勝手に決めつけていた。でも今はまだまだ成長していけることが楽しみ」という向上心を胸に、「これからは、今日まで自分を育ててくれた家族、仲間、ウリハッキョへの、演奏活動を通じた恩返しの人生を送っていきたい」と笑顔で語った。(尹梨奈)

※1981年生まれ。九州朝鮮高級学校(当時)卒業後、フェリス女学院大学音楽学部器楽学科、同大学院音楽研究科修士課程修了。2010年12月4日、北九州で初ソロリサイタルを開催。08年、ピアノグループ「Caprice」を結成し、毎年12月に横浜市内でコンサートを開催。現在、後進の指導を行う傍ら、演奏活動を行っている。

[朝鮮新報 2011.4.11]