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「沼で溺れても死なない人」

 高校のときに出会ったある友人は、好きな異性のタイプは? と聞かれて「沼で溺れても死なない人」と答えた。

 明るさや率直さを強要される空気にあって、じっとその場を耐え忍び、鋭い目つきでものを見ていた。

 その空気に適合していた自分が彼女と対話できるようになったのは、民族名を名乗ったあとだった。

 人間のわかりやすさよりもその裂け目に好奇心を燃やし、ものごとの不安定性に思いをいたしていた。

 彼女の描く絵は、緻密な線が敷き詰められた執念のような絵だった。授業中も片膝を折って黙々とノートに絵を描く。長いまつげが影をつくって目線を下ろしていた。

 うれしさや楽しみで興奮すると奇声を上げてへらへらと踊る。家にはテキーラが転がり、魔術のような絵が飾ってあった。

 あらゆる枠からこぼれ落ち、型にもはまらない彼女は、周囲から疎まれているところもあった。そこで数多の辛い経験や孤独も味わってきたはずだ。

 民族名を名乗り、社会で周縁化される「異質な他者」として自分を意識させられたときに、はじめて「異質」な存在が自分にとって近しい存在として見えてきた。

 多数者や一般的な価値観からすれば、「異常」とみなされる存在や振る舞いも、背後に必ずその人の歴史や必然性がある。

 「沼で溺れても死なない」知性や直感は、自らの殻を破って交錯する異質な人格や事象の裏側と対面するなかで培われるのかもしれない。(李杏理、大学院生)

[朝鮮新報 2011.2.10]