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岩波書店前社長 安江良介氏を偲んで


「朝鮮人と出会えて幸せだった」 一筋の道を貫いた鮮やかな姿

 生涯、朝鮮問題と取り組み、統一実現と日朝の国交正常化の実現を強く願い続けた安江良介さんが6日、死去した。62歳だった。安江さんは1958年、岩波書店に入社した。戦犯岸信介が政権を取り、日米軍事同盟化や憲法改悪など日本の反動化が急速に進められている時だった。その時代の空気が安江さんを朝鮮問題へと引きつけていったのだ。

 

抑圧された人の立場で

 「戦後、新しい道を歩んできたはずの日本に、なぜ、このような反動的な政治が復活するのだろうかと思い、改めて日本の近代史を勉強しなおそうと思った。それが、朝鮮問題の関心を持つきっかけでした」

 金沢の名高い金箔職人の家に生まれた。金箔は1万分の1ミリの世界。この極限の技術に日々、精魂込めた父の頑固一徹な職人気質が、安江さんの骨太のジャーナリスト精神にも脈々と受け継がれていたように思う。とりわけ南朝鮮の民主化闘争を積極的に支援して始まった雑誌「世界」での「韓国からの通信」は、様々な圧力と闘いながら屈せず、17年も続いた。

 90年に岩波書店社長に就任した直後、冗談を交えて「社業が忙しくなりましたから、朝鮮問題の集会にも出られなくなりますよ」と語ったことがある。しかし、その後も安江さんは全国各地のどんな小さな集会でも、招かれると飛んで行って話をし続けた。在日朝鮮人のオモニたちに囲まれて楽しそうに語らっていた。南で獄中生活を送る政治犯の家族から「雑誌『世界』を生きる支えにしています」と声をかけられた時に、安江さんは溢れる涙を拭おうとしなかった。いつも抑圧された弱い人の立場の側で喜び、怒り、涙する人だった。

 

朝大認可に心血、主席と5回会見

 67年には、美濃部革新都政の特別職秘書を務め、朝鮮大学校の認可問題に心血を注いだ。「悪戦苦闘した結果、在日朝鮮人の圧倒的な声援を受けて実現した。あの時の声援は、本当に嬉しかったですね」。

 安江さんは、日本の反動化と日本のジャーナリズムの中の歪んだ朝鮮観の台頭に警鐘を鳴らし続けた。とりわけ共和国バッシングが吹き荒れるマスコミの現状を見る時、安江さんの歩んだ苦難は並大抵ではなかった。しかし安江さんは主張を貫き、信念を曲げなかった。その真摯な姿勢は金日成主席の深い信頼を得た。主席は安江さんを友人として温かくもてなした。

 「主席とは5回お会いしましたが、85年には朝の9時から夜の9時頃まで12時間もご一緒しました。率直に語り、若々しく、闊達で時間を忘れるほど深く魅せられたものでした。乱暴なこともずいぶん申しあげましたが、主席はどんな思いでしょっちゅう私に話をしてくださったのだろうか。きっと、礼儀も何も知らない息子のような奴が来たからと思っていらしたんでしょうね」。主席を語る時の嬉しそうな笑顔が印象的だった。

 日朝正常化の早期実現を願い続け、その信念をこう吐露した。「何のために日朝正常化をするかといえば、1つは歴史の清算です。自らの過ちを進んで謝罪して清算する、ということです。自分たちの心の中に正義を取り返したいから謝るのであって、決して他人のために謝るのではないと思います」。

 朝鮮問題に取り組む過程で北、南、在日の多くの朝鮮人と出会い、友人の輪を広げていった。ある時しみじみと語ったことがある。

 「彼らと出会うことによって朝鮮の民族精神を学ぶことができた。それは同時に、すぐれた人間の精神だった。それを知ることができたという意味でやはり、私が一番幸せであるのかも知れません」。語られた言葉の中に一筋の道を貫いた姿が鮮やかに浮かび上がる。心からご冥福を祈る。(粉)