時事・解説//済州道4・3蜂起から50年
24万道民が総決起/果敢に反米抗争
1948年、米軍政下の南朝鮮で起こった反米救国闘争、済州道4・3蜂起から50年が経過した。米国が強行しようとした南朝鮮での単独「選挙」は分断された祖国の永久固定化につながると反対し、30万の道民のうち24万人が決起。無差別の殺りくによって全道民の4分の1に当たる7万人が犠牲となった。決起に至った経緯とその経過、意義などについて見た。(根)
●原因
「5・10単選」阻止に呼応/無差別の「赤狩り」が契機
4・3蜂起はなぜ起きたのか。その原因は全朝鮮民族の強い反対にもかかわらず、米国が李承晩を押し立てて南朝鮮だけの単独「政権」を樹立しようとした点にある。
45年2月のヤルタ協定に基づき、朝鮮を支配していた日本軍の武装解除のため、北緯38度線を臨時境界線にしてソ米両軍隊が進駐した。
南朝鮮では45年9月の米軍上陸で軍政が敷かれた。同年12月のモスクワ3国外相会議では、朝鮮の独立と長期の日本帝国主義植民地支配の影響を早急に取り除くため、朝鮮民主主義臨時政府の樹立を決定、この実行に向けたソ米共同委員会も設けられた。
だが、朝鮮分断を画策する米国はソ米共同委員会を決裂させ、朝鮮問題を国連に上程、「国連臨時朝鮮委員団」の監視のもとに「単独選挙」を48年5月10日に実施しようとしていた。
民衆はこれに猛烈に抗議し「2・7救国闘争」を皮切りに各地で「選挙」阻止を叫び、国の独立を阻む米軍政に反対した。こうした全民衆的な動きに呼応し、済州道民も決起した。
済州道民が決起に至った直接的なきっかけは、米軍政や右翼テロ集団による民衆弾圧が強まっていた47年の、3・1節記念デモの際の発砲事件だった。6人が死亡、8人が負傷した。 道民は米軍政庁と警察に謝罪と処罰を求めたが拒否され、ストを断行。米軍政庁は「スト鎮圧」を名目に、米軍と警察、右翼テロ集団の「西北青年団」などを本土から済州道に送り込み、無差別の「レッド・ハント」(赤狩り)を始めた。そして48年4月3日、弾圧に抗して道民は総決起したのである。
●隠ぺい
「暴動」と烙印押す/今なお事実隠ぺい
4・3蜂起は、南朝鮮を植民地統治し、単独「政権」を作ることで、朝鮮半島分断の永久固定化を狙う米軍政に反対し、済州道の民衆が一丸となって立ち上がった大規模な反米救国闘争という意味で、南朝鮮の民衆闘争史において大きな意義を持つ。
ところが、事件発生から50年の歳月が過ぎてもなお、南朝鮮では4・3蜂起の真相究明に関する研究や調査はおろか、事件について語られることすらなく、事件そのものに言及すること自体、長らくタブー視されてきた。歴代「政権」が「共産主義者による暴動」との烙印を押し、真相を隠ぺい、わい曲してきたからである。
99.97%の北の人民、77.52%の南の人民が投票に参加し総意によって樹立された共和国政府に対し、事件の真相が白日の下にさらされれば、南のみの単独「選挙」で作られた「大韓民国政府」の「正統性」の根幹を揺るがす事態になる。また、4・3蜂起が米軍による大量無差別虐殺であることも親米「政権」の危機につながりかねない。
そのため、当局は徹底した真相の隠ぺいを図り、済州道民は自らの弾圧体験を口にすることはまったくできなかった。朴正煕「政権」は、虐殺された犠牲者の遺族らが共同で建立した碑を強制撤去までした。
ソウルの市民団体「人権運動サランバン」の徐俊植代表は、昨年9月末からソウルで人権映画祭を催し、4・3蜂起をテーマにしたドキュメンタリー映画「レッド・ハント」を上映した。これに対し当局は、映画は「国家保安法」上の「利敵表現物」に当たり、上映は保安法違反だとして不当逮捕した。当局の真相隠ぺい工作は今なお続いている。
●経過
団結し遊撃戦展開/「焦土化作戦」で7万人を虐殺
48年4月3日午前2時、済州道の人民遊撃隊をはじめ、労働者や農・漁民、学生ら約3000人は、漢拏山とその周辺での烽火、鐘の音を合図に決起した。
彼らは、@米軍の即時撤収 A売国的な単独「選挙」絶対反対 B投獄された愛国者の無条件釈放 C「国連臨時朝鮮委員団」の即時帰国 D李承晩打倒 E警察とテロ集団の即時撤収 F朝鮮統一・独立万歳――などといったスローガンを掲げ、道内14ヵ所の警察支所と派出所、済州や西帰浦などの警察署、右翼テロ集団の宿舎、行政機関を一斉に襲撃した。これは、民族自主の力で統一独立国家を作ろうとする民衆の愛国的志向と闘志を示すものだった。
遊撃隊を組み、漢拏山を本拠に選挙者登録の拒否や選挙者名簿の奪取、選挙事務所の襲撃を行う道民に、本土の民衆も呼応した。「選挙」の数日前には道民約5万人が漢拏山にこもり、投票を集団拒否した。多くの選挙区で投票箱の設置すらできず、「選挙」は完全に破たんした。
米国は1500人の武装警察と3000人の「国防警備隊」を増援、道全体の「焦土化作戦」を展開した。
295もの部落を焼き討ちし、全家屋の半数に当たる2万8000戸が焼却された。道民に対しては「遊撃隊の関係者」として手当たり次第に連行、虐殺し、全道民の4分の1、7万人が犠牲となった。
57年に最後の遊撃隊員が逮捕されるまで、抗争は9年もの長きに渡った。
●追求
高まる真相究明の声/慰霊祭、特別委員会結成も
南朝鮮では87年6月の民主化抗争を機に、80年5月18日の光州大虐殺の真相究明を求める世論が高まり、同時に「封印」されてきた4・3蜂起の真相究明と名誉回復を求める声も徐々に本格化してきた。
地元紙、済州新聞(現・済民日報)の「4・3取材班」は88年春以来、10年間、追及を続けている。これまでに約5000人の体験者の証言を取材し、それらの証言と米国政府の資料に基づき真相を検証する週2回の長期大型連載「4・3は語る」をスタート。現在、400回近くに達している。
また、地元では94年から合同慰霊祭が催され、済州道「議会」にも4・3特別委員会が設置された。96年からは「国会」を含め南の全土で真相究明を求める運動も起きている。
こうした全民衆的な関心の高まりにつれ、南の社会全体で4・3蜂起が公式化していった。金大中「大統領」は選挙の際の会見で「政府の保存文書公開などを通じた真相究明と名誉回復のための特別法制定を検討中」と述べている。
済州道では当局に1日も早い真相究明の具体化を求めているが、被害者が依然、口を閉ざし続ける現状から、全貌は明らかにされていない。4・3特別委では97年2月に被害調査報告書を作成したが、記載された被害者は1万5000人に過ぎない。実際の被害者は7〜8万人とされる。
しかし、米軍政が「焦土化作戦」による「討伐」を自ら提案し、米軍や警察、「西北青年団」が直接、無差別虐殺を行ったこと、李承晩とその背後の米軍政に明確な責任があるという事実は、済民日報の連載をはじめ、数々の研究と調査で言及されており、4・3蜂起が明らかに反米抗争であったことを裏付けている。