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特集//「大同江文化」


共和国歴史学学会、平壌一帯の古代文化を「大同江文化」と命名

 3月11日発朝鮮中央通信は、共和国歴史学学会がこのほど研究成果を発表し、平壌一帯の古代文化を「大同江文化」と命名したと報じた。これは、平壌を中心とした大同江流域の広い地域が、人類と古代文化の発祥地、中心地であったことを示し、大きな意義を持つものだ。報道の内容は次のとおり。(朝鮮通信、中見出しは編集部)

 

人類文化発祥地の一つ

数多くの遺跡出土

 共和国歴史学学会ではこのほど、考古学者たちが平壌を中心とした大同江一帯の古代文化遺跡、遺物に対する発掘と研究を重ねた成果に基づき、同地域の旧文化を「大同江文化」と命名することにした。

 世界的に見た場合、古代先進文明は山河が秀麗で土地が肥沃な流域で形成され、川の名前と結び付いた「文化」として呼ばれてきた。「大同江文化」の命名は、旧石器時代初期から古代時期の文化遺跡、遺物が数多く発見された平壌を中心に大同江の中・下流域を包括する広大な地域が、人類と古代文化の発祥地、中心地の一つであったことを知らせるものだ。

 共和国の考古学者たちはこの数年間、大同江流域から数多く発見された原始文化と檀君および古朝鮮時期の遺跡、遺物に対する研究を重ね、その成果を科学理論的に体系化することで、「大同江文化」を定立させることができた。

 

主に農業生産

 「大同江文化」は人類の発祥地、人類文化の発生地の一つである歴史の聖地で形成されたため、その文明の根は深く長い。

 大同江流域では、これを科学的に実証する多くの物質的資料が出土した。

 水晶のように澄んだ川と広く肥沃な平野、物産が豊富で暖かいことから、古くから人々が暮らし良い大同江流域の平壌市祥原郡黒隅里からは、今から百余万年前の原人が生活したコムンモル(黒隅)遺跡がすでに発見されている。

 この遺跡は、大同江流域が人類発祥地の一つであり、人類文化の発生地であることを実証している。

 平壌市力浦区域の大○洞(○は山へんに見)遺跡と徳川市の勝利山洞窟遺跡からは「力浦人」「徳川人」と呼ばれる旧人の化石が、祥原郡の龍谷里1号洞窟遺跡と中里の錦川洞窟遺跡、徳川市の勝利山洞窟遺跡、平壌市勝湖区域の万達山洞窟遺跡からは「竜谷人」「錦川人」「勝利山人」「万達人」と呼ばれる新人の化石が発掘された。

 「竜谷人」「錦川人」「勝利山人」は初期型の新人、「万達人」は後期の新人と確認された。

 学者たちは旧石器時代の前期、中期、後期の遺跡とそこから発掘された人類の化石に基づき、大同江流域が原人、旧人、新人など人類進化の段階を経ながら、朝鮮の祖先が太古の時代から集団を成して生活してきた暮らし良い場所であり、人類の初期文化が生まれた由緒深い歴史の聖地であったことを確証した。

 また、大同江流域が旧石器時代後期の新人に源を発した朝鮮旧時代類型人の故郷であり、農耕文化を主とする新石器時代文化と高度な水準の金属文化を創造した青銅器時代文化が非常に早くから発展してきた、原始文化の発生地、中心地であったことを確認した。

 これについては、平壌市三石区域湖南里の南京遺跡と表垈遺跡、寺洞区域の金灘里遺跡、龍城区域の長村里遺跡、祥原郡竜谷里遺跡、徳川市南陽遺跡、温泉郡雲霞里の弓山遺跡など、大同江流域に分布する新石器時代の遺跡とコマ型土器を使った青銅器時代の住居址が実証している。

 大同江流域の住居址遺跡は、新石器時代に朝鮮旧時代類型人が大同江流域の広い地に定着、生活し、農業を主として様々な生産活動を行っていたことを示している。各遺跡から出土した農具は、朝鮮旧時代類型人が新石器時代中期から石犂を使って農業を営んでいたことを実証している。

 

冶金技術も会得

 こうした過程で、朝鮮旧時代類型人は客観世界に対する知識と経験を蓄積して石器をさらに洗練させ、普通の石材とは異なる鉱石に熱を加えて金属を取り出す冶金技術を会得した。

 彼らは銅に真鍮を合わせる方法で純銅よりも強い青銅を作り、最終的には新しい青銅器文化を作った。これは物質文化の発展において大きな変革であった。

 平壌市三石区域湖南里の南京遺跡と表垈遺跡、寺洞区域の金灘里遺跡、楽浪区域の猿岩洞遺跡、西城区域の臥山洞遺跡、黄海北道松林市石灘里遺跡、平安南道北倉郡の大坪遺跡、徳川市の南陽遺跡などのコマ型土器関係住居址遺跡は、層位相や継承関係から見て、この一帯で新石器時代文化を創造した朝鮮旧時代類型人の直系の子孫が残したことが明らかになった。

 表垈遺跡の第1期層第12号住居址から出土したコマ型土器を試料に年代測定を行った結果、今から5306年前のものであることが確認された。これは、大同江流域で青銅器時代が檀君朝鮮の成立時期よりもはるかに早い紀元前4000年代後半期から始まったことを実証している。

 これらの事実は、非常に早い時期に大同江流域で人類が誕生して朝鮮旧時代類型人に発展し、彼らによって原始文化と古代文明が始まり発展したことを示している。

 

古代文化の中心地

大型支石墓が集中

 「大同江文化」が確固たる学名になったのは、大同江流域が古代文明の発祥地であると同時に、古代文化の中心地であったからだ。檀君が紀元前3000年初めに、平壌を中心に東方で初の古代国家、古朝鮮を築いたことで、この流域では新しい文明時代が開かれた。この時から、大同江流域は朝鮮民族の聖地として光を放つようになった。

 大同江流域が古代文化の中心地であったことは、檀君朝鮮時期の文化を代表する支石墓と石棺がこの流域に最も多く分布していたことから分かる。支石墓は咸鏡南道、両江道、江原道、遼東地方にそれぞれ100〜500基あるというが、大同江流域には調査しただけでも1万4000余基ある。

 それも、他の地域では見られない様々な時期の支石墓が比べようもなく多い。蓋石の面積が50余平方メートル、重さが40〜70トンにもなり、高さが2.7メートル以上もある特大型も少なくない。

 これは、当時、平壌一帯に権力と富を独占した特権層が暮らしており、墓の築造にかけた公費と労働力から考えると、集団的な奴隷労働と権力の産物であったことを物語っている。

 学者たちは、当時の古朝鮮の人々が岩石の構造を把握し、墓の築造において構造力学的に安全性を高めることで、支石墓がこんにちもその姿をそのまま伝えていると見ている。

 

城址や集落址も

 大同江流域では、支石墓と共に石棺も他地域より多く発見され、最近も、平壌市江東郡江東邑順昌里、松石里、太岑里、平安南道成川郡綿坪里、甑山郡龍徳里、平城市慶新里などで発掘された。

 石棺から、栄華を極めた支配階級だけが所有できた金銅、純金製の耳飾りや首飾り、指輪、青銅製帯留め、灰色の陶器などが出土した事実は、大同江流域が古代文化の中心地であったことを実証している。

 国の防衛を目的として築かれた平壌市江東郡南江労働者区の黄垈城、鳳山郡智塔里土城、温泉郡城○里(○は山へんに見)土城なども、非常に早い時期に国家が形成されたことを証明する実例となる。

 とくに、江東郡南江労働者区の黄垈城前の山で発掘された黄垈城は、今から5000年前ごろに築造され、朝鮮中世期の土石混築の城と似たものであった。このような土城遺跡は、大同江流域に常備軍と防御手段を持った古代国家がすでに存在し、城の築造技術と形式も発達した水準にあったことを実証している。

 大同江流域では、都市を彷彿させる大きな集落址遺跡も多く発掘された。

 学者たちは15万平方メートルに及ぶ平壌市三石区域湖南里の表垈遺跡をはじめ、勝湖区域鳳島里遺跡、梨川里遺跡、順安区域石岩遺跡、平安南道徳川市南陽遺跡、黄海北道黄州郡高淵里遺跡などを発掘した。これらの大部分は、100〜150数個のコマ型土器関係住居址遺跡で形成された大規模な集落址遺跡であった。

 このような大規模の集落が集中していることは、古代文明の中心地でのみ見ることのできる現象である。

 

檀君朝鮮で金製品

 学者たちは、大同江流域で発掘された青銅器遺物と金、土器、鉄器製品の研究を通じても、この一帯が発達した古代文明の中心地であったことを確認した。

 注目すべきは、檀君朝鮮を前後した時期の遺跡である祥原郡龍谷里5号支石墓と三石区域湖南里表垈遺跡、徳川市南陽遺跡のコマ型土器関係住居址遺跡で、琵琶形槍が出土したことである。

 これまでは、琵琶形槍が琵琶形短剣と共に使われ、その上限が紀元前1200年以前にさかのぼることはなく、琵琶形短剣文化の発祥地と中心地が遼東地方であったと見なされていた。

 しかし、大同江流域の支石墓とコマ土器関係住居址遺跡で、紀元前2600年ごろの琵琶形槍が発見されたことにより、琵琶形短剣文化の発祥地と中心地が大同江流域であったことが新たに明らかにされた。

 琵琶形槍のような高度な青銅製武器は、発達した青銅鋳造技術と加工技術でのみ作ることのできるものであるため、大同江流域で青銅器生産はこれよりはるかに以前の紀元前4000年代後半期から始まったと見ることができる。

 祥原郡場里1号支石墓から青銅二人曲芸工芸品と青銅鈴が発掘されたことも、特異なことである。これらに反映されている工芸美術的な内容は、当時、音楽と舞踊、曲芸などの芸術が相当高い水準で発展していたことを示している。

 また注目すべきは、朝鮮で檀君朝鮮時期から金製品を生産し始めたことである。

 学者たちは、江東郡順昌里2号、5号の石棺墓から出土した金製の耳飾りは、それぞれ4376年前、4425年前のもので、板金法(金属の板を塑状変形させて各種の形に作ること)とアマルガム法(金銀鉱石を水銀に接触させて水銀アマルガムを作ることで金銀を採取すること)によって製作されたことを解明した。
 数々の石棺墓から金製品と共に発掘された、紀元前2500〜2400年代に作られた土器と紀元前1100年代に作られた鉄鏡、鉄器なども、大同江流域を中心に土器文化と鉄器文化が発生、発展したことを実物を通して伝えている。

 

早くから文字使用

 大同江流域では、世界的に最も早い時期に稲をはじめ粟、豆、キビなどの五穀農作と、他の国々とは完全に異なった三眠蚕の養殖をしたことを示す物質的資料も発掘された。

 また、蓋石の表面に溝穴を掘った支石墓が200余基も発見された。

 学者の調査、研究によると、その溝穴は星座を示した星座図であり、世界的に見て最も古い天文学の始原になるものであった。蓋石に描かれた星座は、非常に正確で、移動尺度の差が大きくない。こうした事実は、古朝鮮人の天文知識が相当高い水準にあり、それを早い時期に実際の生産活動と生活に利用したことを物語っている。

 生活の教材手段であり、知識の重要な普及手段である文字の発生と使用は、古代文化発展の水準を測るうえで重要な要素の一つとなる。

 学者たちは、新たに発掘された檀君および古朝鮮時期の文字生活に関する資料を研究し、大同江流域の住民の中で早くから文明時代の文字、神誌文字が使われていたことを確認した。

 実に、自然地理的条件が有利で、山水が秀麗で、人類が発生して絶えず発展してきた、平壌を中心とした大同江流域は、朝鮮民族の文化の発祥地であり、5000年前からすでに政治、経済、文化の中心地であった。

 このように、大同江流域は人類文化の宝庫を輝かしく飾る文化財が満ちている、誇り高い歴史の地である。

 近年、大同江流域にある民族の始祖王の墓である檀君陵と高句麗始祖王の墓、東明王陵が改築され、平壌が民族の聖地としてさらに輝きを放っている時、この地域の古代文化に対する研究が深められ、一つの強固な学名として内外に広く伝えられたことは、特筆すべき意義深いことである。