特集//太陽節――朝鮮式社会主義の完成めざした金日成主席
共和国では、昨年7月8日の金日成主席の逝去3周年中央追悼大会をもって、喪明けを宣布するとともに、主席の誕生日である4月15日を太陽節として制定した。主席が描いた朝鮮式社会主義の政治、経済、外交、祖国統一とはどのようなものかを見る。(基)
政治
チュチェ思想を具現/指導者と人民が一心団結
金日成主席は、抗日武装闘争の過程を通じてチュチェ思想を創始し、祖国解放(45年8月15日)直後の同年10月10日に朝鮮労働党、48年9月9日には自主独立国家である朝鮮民主主義人民共和国を創建した。
チュチェ思想は党と政府の指導思想に定められた。中・ソ両社会主義大国の挾間で共和国が独自の社会主義路線を歩むためには、チュチェ思想を掲げ、それに依拠することが不可欠であった。
共和国ではチュチェ思想を唯一の指導思想に掲げ、主席を朝鮮の社会主義革命における唯一の領袖として、党と国家と人民が一致団結して社会主義建設を推進してきた。その結果、思想におけるチュチェ、政治における自主、経済における自立、国防における自衛路線が実現された。言い換えれば、チュチェ思想を現実の要求に応じて具現し、社会主義の優越性を発揮してきたのである。
自主政治とは @自らの指導理念を持ち、路線と政策を自国の実情に合わせて行い A自国民の力に依拠して自国民の利益を擁護するために行う政治を意味する。主席が主体性を持って国造りを推し進めたことの正当性は、ソ連・東欧の社会主義崩壊後、帝国主義勢力の孤立・圧殺政策をはね返して共和国が社会主義体制をしっかりと堅持していることで立証された。
主席が築いた朝鮮式社会主義路線は、主席逝去後、金正日総書記が受け継ぎ、さらに強固なものへと強化発展している。
経済
自らの資源、技術、人材/自力更生の精神で
経済における自立、すなわち共和国の自立的民族経済とは、チュチェ思想を経済建設の分野に具現し、自己の資源、自己の技術、自己の人材を基本にして経済を発展させることである。
共和国がこれまで国際的経済封鎖を受けながらも社会主義を守ってこられたのは、自立的民族経済の土台が構築されていたからだ。
94年以来、共和国では農業、軽工業、貿易の3つの第1主義の遂行に力を注いできた。しかし @ソ連・東欧崩壊による社会主義市場の喪失 A米国を中心とする国際的な共和国抹殺策動 B95〜97年と3年続いた自然災害――などによって、かつてない困難下で社会主義建設の推進を余儀なくされた。
度重なる逆境の中、共和国ではここ数年間、「苦難の行軍」を行ってきたが、今年元旦の共同社説は「『苦難の行軍』の困難な峠を克服した」と指摘した。金正日総書記は今年に入ってから、中小型発電所を自力で多数建設した慈江道と、共和国屈指の鋼鉄生産基地である城津製鋼所を現地指導した。これには、慈江道の自力更生の精神=江界精神を支柱に全国で新たな大高揚を起こし、その具体策として鋼材生産を正常化して重工業の土台をしっかりと固めようとの意図が込められている。
今後、自力更生の精神で重工業が発展すれば、人民経済全般をもり立てることになる。
また共和国は羅津―先鋒自由経済貿易地帯、南浦・元山保税加工区を創設し、資本主義諸国との経済協力にも積極的に取り組んでいる。とくに自由経済貿易地帯の開発は、90年11月、主席の直接の発議によって始まったもので、91年12月には政務院決定として正式に公布され、100%の外資導入を認めた。主席逝去直前の94年7月6日にも地帯開発に関する重要な教示を行った。
共和国では同地帯開発を通じて資本主義市場を開拓しようとしており、共和国が米国に求めている経済封鎖解除が実施されれば、同地帯への投資も促進されよう。これらは資本主義との経済交流を活性化させようとの、意欲の表れである。
外交
自主、平和、親善の理念/朝米関係改善の道開く
「現在の国際情勢は複雑ではありますが、共和国政府の自主的な外交政策には変わりはありません。共和国政府は今後も引き続き自主、平和、親善の対外政策を貫徹していくでしょう」
金日成主席は93年の新年の辞でこう述べた。共和国の対外政策的理念と活動原則であるこの「自主、平和、親善」は、社会主義憲法第1章第17条で定められている。
これは共和国の指導思想であるチュチェ思想に基づいており、人間の本性に根ざした人類共同の理念であると位置づけられている。
これを対外政策の理念とするのは、社会主義諸国と非同盟諸国、発展途上諸国が自主性の旗のもとに堅く団結し、自主権と平等、正義と公正性に基づいた新たな国際秩序を打ち立ててこそ、各国が共に富強繁栄できるからである。
社会主義理念構築の活動では、92年に採択された平壌宣言「社会主義偉業を擁護し前進させよう」に3月18日現在まで241の政党が署名しているように、共和国が主導的な役割を果たしている。
一方、朝鮮問題解決のための活動にも力を注いでる。これはポスト冷戦の流れに沿って、朝鮮半島において外勢の力の政策に終止符を打ち、軍縮平和を実現し統一の条件を作り出すための関係諸国との外交を意味する。
その対象としては、朝鮮分断の張本人であり安全保障上の一方の当事者である米国、朝鮮問題に歴史的責任があり過去を清算すべき義務を持つ日本、これらの問題を取り巻く関係諸国としての中国、ロシアなどが挙げられる。
とくに朝米関係では、94年6月の主席とカーター元米大統領との会談が、米国の敵視政策転換の契機となったことは言うまでもない。その後主席は逝去したが、金正日総書記がその遺訓を受け継ぎ同年10月21日、朝米基本合意文調印へと導いた。
共和国が対米関係改善を重視するのは、朝鮮戦争の停戦協定の一方の当事者である米国と平和協定を締結してこそ、朝鮮半島の確固とした平和が維持され、さらには東北アジア安全保障が構築されるからである。
統一
原則、綱領、方途示す/高麗民主連邦共和国創立案
金日成主席が生前、最後にサインした文献は祖国統一に関するものだった。
主席の統一遺訓とは、統一の原則である自主、平和統一、民族大団結の祖国統一3大原則、政治綱領である「祖国統一のための全民族大団結10大綱領」、基本方途である高麗民主連邦共和国創立方案に基づき、国の統一を実現することである。
主席は晩年の活動を通じて朝鮮の自主的平和統一を実現させるため南北関係改善の道を開いた。カーター元米大統領との会談を機に朝米関係改善の展望が示され、統一に向けての国際環境が醸成され始めた条件のもとで、主席は金泳三との南北最高位級会談を提案した。
そして94年7月25〜27日に最高位級会談の開催で合意したが、主席は7月7日、祖国統一と関連した重大文献に最後のサインを残し、翌8日に惜しくも逝去した。
その後の96年11月、金正日総書記は板門店を訪れた際、主席が示した3つの統一方針を祖国統一3大憲章として定めた。それは外勢に依存せず民族をキーワードにして、1つの民族、1つの国家、2つの制度、2つの政府に基づく連邦制方式の民族統一国家を創立するというもの。
総書記は、主席逝去の喪明け直後の昨年7月13日付で在米僑胞記者・文明子氏に書簡を送り、3大憲章は「われわれが祖国統一のためのたたかいで確固と堅持し、最後まで貫徹しなければならない指導的指針」であると改めて強調した。
さらに同年8月4日に発表した論文「偉大な領袖金日成同志の祖国統一遺訓を徹底的に貫徹しよう」でも、「祖国統一の3大憲章こそ、祖国統一の旗印であり、祖国の自主的平和統一を実現するための最も正当で現実的な闘争綱領である」と述べた。
そして、元旦の共同社説でも3大憲章を高く掲げていくことを強調、2月18日に平壌で開かれた共和国の政党・団体連合会議でも再びそのことを明らかにした。
とくに同連合会議では、金容淳朝鮮労働党書記が「祖国統一の3大憲章を指針として、北と南が共に自主と団結の道に進まなければならない」と述べ、南朝鮮当局に対北対決政策の連北和解政策への転換、「国家保安法」の撤廃と安企部の解体を求めた。こうした問題が解決されれば、凍結された現在の南北関係を改善して対話と交流を行う雰囲気が整うだろう。
○在日朝鮮人運動救った主席の「路線転換方針」○
現在、総聯が行っている在日朝鮮人運動は民族的、愛国的な海外僑胞運動だ。つまり、@在日同胞自身の民族的権利と利益を擁護するための民族的運動 A在日同胞が祖国と民族に寄与する愛国的運動――の2つの側面を持つ。在日同胞による在日同胞のための運動なのだから、@は自明の理だ。Aについて言えば、在日同胞はあくまでも日本に在住する外国人。その主権は自主独立国家である本国にあり、民族の一員である在日同胞の運命は本国の運命と分かち難く結ばれているのだ。しかし、55年5月の総聯結成以前にはこうした正しい認識を持てず、運動が曲折を経た時期もあった。それを救ったのは金日成主席だ。主席は52年12月、混乱に陥っていた在日朝鮮人運動の路線を根本的に転換する方針を示し、これに沿って総聯は結成された。主席の誕生日である太陽節に際し、主席と総聯の関係の原点、「路線転換方針」について考えたい。(東)
打開の道求めて
祖国と結びついた運動に/自らの手に取り戻す
1945年8月15日、朝鮮は解放された。その時日本にいた朝鮮人は約240万。それは、日本帝国主義の植民地支配の過酷さに耐え兼ね、生き延びる道を捜して故郷を捨てたり、強制連行などで無理やり連れてこられた人たちである。
彼らは生命財産を保護し、速やかに帰国をするために団結すべく、同年10月15日、在日本朝鮮人聯盟(朝聯)を結成した。しかし、敗戦国日本を占領していた米占領軍(GHQ)と日本当局の弾圧政策によって49年9月、朝聯は強制解散に追い込まれてしまう。
組織再建に力を注いだ同胞たちは51年1月に在日朝鮮統一民主戦線(民戦)を結成するが、民戦内では在日同胞を「日本の少数民族」とみなし、日本の政党の指導下に入って日本の民主化のためにたたかうべきだという内政干渉的な主張が台頭。民戦は、その政党の極左的な暴力闘争路線に巻き込まれ、同胞が日本の民主化のために多くの犠牲を払うという事態に陥った。
誰のための、何のための運動なのか。憂慮した活動家たちの代表は、難局を打開する道を求めて海を渡り、主席を訪ねた。52年12月、主席はその代表に会い、運動の路線を転換すべきだと語る。
「路線転換方針」の内容は @在日同胞は日本に住んでいるが、日本の革命のためでなく、祖国のために運動しなくてはならない A在日朝鮮人運動は祖国の指導を受け祖国と緊密に連携しながら進めるべき B在日同胞は自身が主人となって愛国運動を展開しなければならない――というもの。抗日武装闘争の時代、複雑な状況の中、中国という他国で自国の革命のためにたたかった豊かな経験に基づく的確な判断だった。
日本の状況を熟知していた主席はさらに、路線転換に基づく新たな組織を結成する必要性と、在日同胞の生活と共和国公民権の擁護、民族教育の権利の保障、祖国統一などを目指して活動すべきだという運動の方向性を示した。
この方針を積極的に受け入れた韓徳銖・現総聯議長らの尽力によって民戦は解散、55年5月、総聯が結成される。在日同胞は、運動を自らの手に取り戻した。
「朝聯の強制解散後、総聯結成までの6年間はまさに苦難の歴史だった。打開する道は、主席の路線転換方針にしかなかった」と、総聯岐阜県本部の金邦顕常任顧問は当時を振り返る。
21世紀を目指して
力ある同胞社会形成へ/共通項は「民族」
21世紀を目前にした今、各国家、各民族の個性と尊厳を尊重することが世界的なすう勢になっている。国単位、民族単位の人民の自決の精神は、国連憲章にもうたわれている。一方で、日本はこうした世界的なすう勢に遅れを取った社会。民族性をアピールしつつも、祖国との密接な関係なくして在日同胞の権利擁護はままならない。
こうした諸条件を踏まえても、主席の「路線転換方針」によって敷かれた総聯の民族的、愛国的な在日朝鮮人運動の路線は、これまではもちろん、今後、21世紀も力を持つだろう。とくに、祖国が分断された状況にある在日同胞が、政治、理念を超えた力ある同胞社会を形成していくためには、一定の共通基準、シンボルが必要だ。今考えられる共通項は朝鮮人であること=「民族」以外にない。
主席が逝去した翌年の95年5月24日、結成40周年を迎える総聯と在日同胞に、金正日総書記は「在日朝鮮人運動を新たな高い段階へと発展させるために」と題する書簡を送った。在日朝鮮人運動を理論化、定式化した書簡は21世紀の運動を展望する内容で、主席の路線転換方針に匹敵するとも言われる。
書簡は、海外僑胞問題を民族問題の一環とみなし、民族問題の基本が民族の自主権に関する問題だとしながら、在日朝鮮人運動の基本的使命はまず、在日同胞の民族的権利を擁護することであり、次に、祖国の発展と統一のために寄与することであると定義した。このベースにはもちろん、主席から引き継がれた海外僑胞運動思想がある。
朝鮮学校差別の是正を求めた日本弁護士連合会の調査報告書も強調しているように、たとえ外国に住んでいても民族性を守り、継承していくのは民族の一員として神聖不可侵の権利だ。
在日朝鮮人運動史に詳しい朝鮮大学校政治経済学部の呉圭祥学部長は「あの時、路線転換方針がなかったら、こんにちのような運動と在日同胞は存在していないだろう」と語る。
祖国・民族と結びついた、在日同胞による在日同胞のための運動。総聯と在日同胞の43年の歴史、何よりも私たちの存在自体が、主席の示したこの路線の正しさを実証している。
キーワード
太陽節
金日成主席の誕生日である4月15日のこと。主席の喪明けが宣布された昨年7月8日、朝鮮労働党中央委員会、朝鮮労働党中央軍事委員会、共和国国防委員会、共和国中央人民委員会、共和国政務院の決定書「偉大な領袖金日成同志の革命生涯と不滅の業績を末永く輝かせるために」を通じて制定された。
主席を党と人民の永遠の領袖、チュチェの太陽として永遠に奉じ、主席の革命業績を固守し代を継いで輝かせることは、党の揺るぎない決心、全人民の等しい意志だ。太陽節の制定は、朝鮮人民を日本の植民地支配から解放し、チュチェ思想を創始して社会主義朝鮮を建設した主席の革命生涯と業績を末永く輝かせるものであり、「主席は永遠にわれわれと共にいる」という朝鮮人民の信念の表れだと言える。
チュチェ年号
金日成主席が誕生した1912年を元年とする年号。太陽節とともに制定され、決定書に従って昨年9月9日から、共和国で新たに作成、公布、発給、発行される文献や出版物、建造物など年度を表記する全対象で使われている。
基本的にチュチェ年号による年度と西暦年度を併記するが、年号年度のみ用いる場合もある。チュチェ元年である1912年以前は従来通り西暦で表す。チュチェ年号で表すと、祖国解放の1945年はチュチェ34年8月15日、共和国創建の1948年はチュチェ37年9月9日、朝鮮戦争の1950〜53年はチュチェ39年6月25日〜チュチェ42年7月27日となる。