時事・解説/南北連席会議から50年
思想、政見超え全民族が団結
金日成主席の提案により、1948年4月19日から23日まで平壌で、南北朝鮮の政党・社会団体の代表が思想や信条、主義主張の違いを超えて初めて一堂に会して行われた南北連席会議から、今年で満50年を迎える。朝鮮解放後、民族分断を企む米軍政に抗する南北全人民の意思が反映された歴史的な会議であり、南北すべての愛国勢力の団結による反米救国統一戦線形成の先駆けでもあった。民族自主・大団結による平和統一という理念は、共和国の現在の統一政策にも受け継がれている。(根)
開催の背景
米軍政の「単選」強行に反対/56政党・団体が参加
南北連席会議が開催された当時の朝鮮半島情勢は、南だけの「単独政権」樹立と南北分断固定化を狙う米軍政により、極度に緊張していた。
45年8月15日、朝鮮は解放された。同年2月のヤルタ協定に基づき、朝鮮を支配していた日本軍の武装解除のため、北緯38度線を臨時境界にソ米が北と南に進駐することになり、南では9月、米軍が上陸して軍政を敷いた。
ソ米英による45年12月のモスクワ3国外相会談では、朝鮮独立と日本植民地支配の影響の除去のため、統一的な朝鮮民主主義臨時政府を樹立することを決定し、そのためのソ米共同委員会も発足させた。しかし、米国は取り決めを破って共同委を意図的に決裂させ、国連に朝鮮問題を持ち込んで「国連臨時朝鮮委員団」を設置。その監視のもと、李承晩を担ぎ上げて「単独政権」を作ろうと、48年5月10日に南だけの「単独選挙」強行を画策した。
外勢による民族分断の危機に対処するため、金日成主席は48年3月27日に北朝鮮労働党第2回大会を開き、自主的原則と民主主義に基づく南北総選挙による統一政府樹立方針を提起、これに従って、北朝鮮民主主義民族統一戦線の名で、全朝鮮人民に向けて南北連席会議の開催を公式に発議した。
南では48年4月3日、24万の済州道民が米軍政と「単独選挙」強行に反対して決起した済州道4・3蜂起が起こった。民族による自主独立統一を目指した同蜂起では7万人が虐殺され、反米の機運は一層高まった。
こうした中、南北連席会議の開催提起は、金九、金奎植、洪命熹、許憲ら、分断固定化を憂慮する民族主義者の支持を受け、左右を問わず多くの団体代表が米軍政の厳しい監視をくぐり抜け、38度線を越えて入北した。
こうして48年4月19日に開幕した南北連席会議には、南北の56政党・社会団体の構成員約1000余万人の代表695人が参加した。そのうち、南からの代表は36団体、360余人に及んだ。
会議の内容
南北代表が民族の運命を協議/南の人士、統一への思いに共感、連共へ
金日成主席は4月21日、「北朝鮮の政治情勢」と題して報告した。
主席は報告で、政治情勢が緊迫する中で朝鮮人民に提起された最大の課題は、「単独選挙」を破たんさせ、民主主義の原則に基づく自主的な統一政権樹立のためのたたかいを展開することだと明言。民族を挙げてのたたかいで、祖国と民族の運命を憂慮するすべての人は、党派や宗教、所属、政治的見解の如何を問わず、必ず団結しなければならないと語り、すべての愛国的民主勢力が団結し、祖国の統一独立のための救国案と対策を緊急に講じなければならないと提起した。
会議では、統一民主自主独立国家の実現をうたった「朝鮮の政治情勢に対する決定書」、「国連臨時朝鮮委員団」撤収とソ米両軍同時撤退後の全朝鮮地域における統一選挙実施を訴えたソ米両政府への要請書が満場一致で採択され、救国闘争を呼びかける檄文「全朝鮮同胞に檄す」が発表、南朝鮮単独選挙反対闘争委員会の発足も決定した。会議終了後の4月30日には南北政党・社会団体指導者協議会が行われ、外国軍隊撤収などを訴える共同声明を発表した。
南北の政党・社会団体代表が初めて一堂に会し、民族の運命について協議したという意味で、南北連席会議は大きな意義を持つものであった。
南北人民は会議の方針に基づき「単独選挙」阻止のための民衆抗争に立ち上がった。南北連席会議は、祖国の統一独立という崇高な理念のもとでは、すべての政党・団体・個人が団結することは可能であることを明確に示した歴史的な会議であった。
南の右翼民族主義者の指導者であった金九は、「祖国なければ民族なし」と題して「単独選挙」粉砕と統一政府樹立の必要性を力説した。北の人民の統一への思いと政見を超えた民族大団結という会議の趣旨に共感し、反共から連共へと転じた。
全朝鮮人民の強い反対にもかかわらず、米国は48年5月10日、南で「単独選挙」を強行し、李承晩を押し立てて8月15日に「大韓民国」という、人民の総意によらない「政府」をでっち上げた。
一方、北では8月25日、南北全土で最高人民会議代議員選挙が行われ、北で有権者の99.97%、南の秘密選挙でも77.52%が参加。南北の代表572人が代議員に選出され、9月9日、南北両人民の総意による朝鮮民主主義人民共和国が創建された。
しかし、南に帰った民族主義者らが民族自主・大団結の志を曲げずに精力的にたたかったことから、49年6月26日、金九は李承晩が送った刺客の凶弾に倒れた。
今日的意義
受け継がれる団結の理念/南に求められる政策転換
南北連席会議は、思想や理念が異なり、政見や信仰の違いがあろうと、民族共同の偉業のためのたたかいにおいてはだれでも団結できることをはっきりと示した。会議で提起された民族自主・大団結の理念は、現在の共和国の統一政策に受け継がれている。
72年7月4日、金日成主席が明らかにした自主・平和統一・民族大団結の祖国統一3大原則を基本内容とする南北共同声明が発表された。その理念が反映されたのが、思想や制度、政見の差を超えて民族の力で連邦制統一を実現しようと訴えた80年10月10日の高麗民主連邦共和国創立方案と93年4月6日の祖国統一のための全民族大団結10大綱領だ。
これらの原則は今も貫かれており、金正日総書記は97年8月4日に発表した著作「偉大な領袖金日成同志の祖国統一遺訓を徹底的に貫徹しよう」で、祖国統一3大原則、高麗民主連邦共和国創立方案、全民族大団結10大綱領を3大憲章として定め、南朝鮮当局者が反民族・反統一政策を捨て、実際の行動で肯定的な変化を見せるならば、彼らといつでも会って民族の運命問題を協議し、統一のために共に努力するだろうと述べた。新「政権」の行動如何では対話の用意があることを示唆するものだ。さらに今年2月18日の共和国政党・団体連合会議では、新「政権」に南北の和解と団結を呼びかけ、反北対決から連北和解への政策転換を訴えた。
南朝鮮当局には、民族自主・大団結の観点から対北敵視政策を放棄し、統一の最大の制度的障害物であり民族大団結を阻む「国家保安法」と「国家安全企画部」をなくすことで統一の意志を示すことが求められる。