誇り高き拳――在日同胞とボクシング(上)
原点/民族心とハングリー精神
1日、香川県で開幕した1998年度インターハイ・ボクシング競技で6人の朝高生が奮闘している。朝高は初出場から4年連続でメダルを獲得しており、3月の全国選抜大会では大阪朝高3年の白永鉄選手が初めて「全国」を制覇した。朝高生に限らず、日本ボクシング界で名をはせた同胞ボクサーは数多い。彼らの強さの裏には何があるのか。また世代交替が進む今、それはどう受け継がれているのか。在日同胞社会におけるボクシングの歴史を探った。(道)
差別の中で
1964年夏。大阪・生野区の東大阪朝鮮第4初級学校(当時)運動場は約2000人の「ファン」で溢れ返っていた。運動場の中央に設けられた手製のリングでは、プロボクシングの試合が行われていた。主催は同胞が経営していた新光ジム(金克日会長)。全部で9試合。出場選手の半分、訪れた観客の7割が同胞だった。
金会長の息子で同ジムに所属していた金克己さん(現在自営業、51)は「同胞のボクシング熱は凄かった。40人ほどいたジムの練習生も6割は同胞だった。昔は今に比べて物がない時代。まして何をやるにしても差別を受けていた同胞にとって、拳一つで稼げるボクシングは魅力的だったのだろう。もちろん、強い同胞ボクサーに憧れて始めた青年も多かった」と語る。
初の世界ランカーも
60年代、日本はボクシングブームのピークだった。世界チャンピオンのファイティング原田などスター選手が数多くいた頃で、一時はテレビでも週4回、ゴールデンタイムに試合が放映されていたほどだ。金田森男(金貴河、日本ミドル級王者)、高山一夫(高一夫、同フェザー級王者)ら同胞のタイトルホルダーがテレビに登場することも日常茶飯事だった。
同胞ボクサーが活躍した歴史はさらに古い。45年の祖国解放前には7人の全日本チャンピオンが生まれている。日本ボクシング界初の世界ランカーも同胞の徐延権だ。解放直後の45年12月5日には、総聯の前身である朝連大阪府本部が、「戦後」の日本で初めてのボクシング興行を主催した(時事通信社発行「ボクシング100年」などによる)。
以来、日本・東洋太平洋チャンピオンの座についた同胞ボクサーは20人を超えると言われている。現役では95年全日本フライ級新人王の洪昌守(23)、同スーパーバンタム級5位の姜哲虎(30)らがいる。
「千里馬」のネーム
千里馬神戸ボクシングジムの千里馬啓徳会長(金啓徳、40)は、同胞で4人目の元日本ミドル級王者だ。リングネームの「千里馬」とは1日に千里を駆けるという伝説の馬で、朝鮮人民の英雄的気概と不屈の闘志のシンボル。「共和国の海外公民としての誇り」を込めた。
83年1月にタイトルを奪取し、2年間に5度防衛。厳しい試合も多かった。極度の脱水症状により試合中に記憶を失くしたこともある。苦しい時ほど「イギョラ! 千里馬!」の声援が体をつき動かした。不屈の闘志でひっくり返した試合は一度や二度ではない。
祖国が植民地の時代に、本名で戦い抜いた同胞ボクサーの1人、玄海男氏(日本バンタム級、フェザー級王者)はこう言っている。「この肉体をもって民族の優秀性を示すため」「朝鮮人としてリングに立った」(山本茂著「異邦人の拳」より、ベースボールマガジン社発行)。
「朝鮮風車」と呼ばれた彼のファイトもまた、倒される度に立ち上がり、それ以上のラッシュで相手をたたき伏せる、気迫あふれるものだった。
祖国を奪われた悲しみに握り締めた拳と、祖国解放の喜びに高く突き上げた拳。この両の拳に宿るハングリー精神、朝鮮民族としての誇りこそ同胞ボクサーの強さの原点ではないだろうか。