誇り高き拳――在日同胞とボクシング(中)
波及/中央大会が活力、唯一の目標
同胞プロボクサーも大きく貢献した日本のボクシングブームは朝鮮学校にも広く波及していった。1970年代には朝鮮大学校、各地の朝高でボクシング部が創部される。今でこそインターハイなどで活躍している朝高選手だが、当時は練習用具もままならず練習試合すらも出来なかった。やっと実現した試合は朝高生だけの中央体育大会。この唯一の目標を活力に朝高選手は実力を高めていった。
2組のグローブから
朝鮮学校に初めてボクシング部が創部されたのは朝鮮大学校。73年にクラブとして正式に認定された。76年には関東大学アマチュアボクシング連盟へ加盟。翌年から関東大学リーグへの道が開かれた。
朝大が活気づく頃、大阪朝高でもボクシング部が創部された。朝高で初めて。74年のことだ。当時のメンバーで同ボクシング部OB会の朴泰弘会長は「校舎と体育館が新築され、学校側からクラブを増やそうと提案されたのがきっかけ。当時は日本高校生とのもめごとも絶えず、腕力をつけようと強さの代名詞だったボクサーに憧れた生徒も入って創られた」と語る。
学校認定のクラブとは言え、内実は同好会のようなものだった。リングもサンドバッグもない。練習用具は2組のグローブだけ。スパーリングの際には、ロープの代わりに周りの部員が手をつないで選手を囲んだ。練習にあまり熱心でない部員もいた。試合で勝つという『目標』がなかったからだろう。練習ですらリングに一度も立つことなく卒業した部員も少なくない。
対外試合の屈辱糧に
創部3年目。初めて練習試合の機会が訪れた。
相手はインターハイ常連の強豪、浪速商業高校。当時の大阪朝高のコーチ、李学宰氏(現ボクシング協会副会長)が組んだもので、浪商の監督がプロ時代のジムメートというよしみから実現した。会場は浪商のジム。リングはもちろん、サンドバッグからミットまですべてが揃っていた。
「驚いた。自分たちはリングに立てるだけで嬉しかった。それでも朝高生としてのプライドがあったので必ず勝ってやろうと臨んだ」(金忠弘・大阪ボクシング団団長)
だが結果は惨敗。「本当のボクシングを見せつけられた」
この屈辱を糧に、練習に取り組む部員の姿勢は一変する。今度また、いつかあるだろう試合で勝ちたい。まだうっすらとしている「目標」に向けて、ひたすら汗を流す日々が続いた。
正式種目に認定
大阪に続いて75年には東京で、その後も九州、広島の各朝高でボクシング部が創部される。
各朝高ボクシング部の監督やOBらは、在日本朝鮮人体育連合会が75年から主催している学生中央体育大会の種目にボクシングを取り入れてもらおうと活動。78年に朝大で東京朝高対大阪朝高戦を組んだ。体連役員へのアピールが目的だった。結果は大成功。翌年から正式種目に認定され、朝大で第1回大会が行われた。東京、大阪、九州、広島の四校が参加し、大阪が団体優勝している。
ライト級で優勝した大阪の金忠弘氏は「結果よりも立派なリングに立てたことが嬉しかった。中央大会への参加認定によって当時の部員らには初めて大きな目標が出来た」と語る。
これを機に各朝高のクラブは一層活性化し、85年には神戸朝高にもボクシング部が創部される。
中央大会が実現し喜びにあふれる選手らは、この唯一の目標に向かってひた走り、切磋琢磨しながら強くなった。これが後にインターハイで活躍する土台となるのだが、この時は誰もが夢にも考えていなかっただろう。(道)