米国の朝鮮戦争敗北@/朝鮮中央通信
朝鮮中央通信は7月14日発から、「米帝の朝鮮戦争敗北」と題する記事を報道し始めた。その内容を随時、紹介する。
大田解放戦争
共和国に対する奇襲攻撃を開始した米国は、朝鮮人民軍の即時的な反撃によって各地で敗戦を重ねた。
現代包囲戦の模範として戦史に記録されている大田解放作戦(1950年7月14〜20日)も、米国の敗北を示す端的な実例である。
戦争開始3日目にソウルから追い出された米国は、大田を「臨時首都」に定め、錦江南岸に強力な防御陣を築いた。そして、この線を「不退陣線」「最終防御線」と豪語した。
金日成主席は、当面の軍事情勢と戦況の科学的な分析に基づいて、人民軍隊の進撃を阻もうとあがく敵に間髪を入れず連続的な打撃を与えて、錦江と小白山脈の東南部でそれぞれ包囲掃滅して南海と大邱方向へ迅速に進出できる有利な条件を整える方針を示した。
人民軍連合部隊は公州と太平里界線の12キロ区間に強力な砲火力の支援のもとに虚偽渡河を組み合わせながら一斉に渡河して、敵が3年は崩せないと豪語していた防御陣を余すところなく粉砕した。その一方、各方面から敵を大田に追い込んだ。
しかし、大田東南方向に進出し、敵の退路と増援を阻止して大田包囲を完成させるべき人民軍の一連合部隊の行動が抵抗する敵によって遅延していた。
戦場報告を受けた主席はすでに、大田西南方向に進出した人民軍部隊を敵の背後を迂回して大田東南方向に進出させ、退路を遮断した。これによって大田西南方向の論山界線に進出した人民軍部隊は一夜のうちに40余キロの険しい山道を進んで大田東南方向に一気に進出して大田に対する完全包囲を実現した。
総攻撃に移った人民軍連合部隊は敵を約100平方キロの地域に追い込み、打撃を加えた。
そして7月20日、大田は解放された。
この作戦で人民軍部隊は米24師団長のディーンを捕虜に、2万4228人の敵を殺傷、捕虜にした。150余門の砲と49両の戦車、1000余台の軍用車と数十台の軍用貨物車などもろ獲、破壊した。大田地域での米軍の完全な惨敗は滅亡の序幕であった。
1211高地防衛戦
朝鮮戦争時、1211高地防衛戦闘は、苛烈な戦闘の一つとして戦史に記されている。
江原道東部に位置する1211高地は、人民軍の重要拠点であった。米国はどんな犠牲を払ってでもこの高地を占領しようと必死にあがいた。
1211高地防衛戦闘は力と意地の対決場であった。
米国は攻撃開始当初から1211高地方面に莫大な兵力と兵器、戦闘器材を投入し、1日平均3万〜4万発の爆弾を使用し、連日数十回もの波状攻撃を強行。
敵のおびただしい爆撃と砲撃によって高地一帯の岩が砕かれ、樹木は根こそぎ吹っ飛び、土煙は舞い上がり、山は削られ地形が変えられた。
1211高地防衛にあたった兵士たちは弾丸がなくなれば岩を投げ落とし、迫撃戦を繰り広げた。
そうした51年9月のある日、主席は現地の軍団長に電話をかけ、戦士たちは何ものにも代え難い貴重な宝だと述べ、温かいご飯と味噌汁を作ってあげ、寝床も寒くないようにして風邪をひかないように面倒を見て上げなさいと語った。
兵士たちは敵の銃口を胸で食い止め、手榴弾を抱えて敵陣に飛び込んでいき、身体を通信線の一部にして部隊の通話をつないだ。
祖国の高地は栄誉と共に固守された。
この戦闘で数万人の敵が殺傷、または捕虜となり、航空機40余機が撃墜、戦車60余両をはじめ大量の兵器や戦闘器材がろ獲、破壊された。
敵はこの高地を見上げるだけでも胸が痛むとして「ハートブレイク・ヒル(傷心嶺)」、谷に入ったが最後、2度と戻れないとして「トラップ・バレー(陥穽谷)」呼んだ。 (朝鮮通信)