創建50周年/金正日総書記と共和国C
統一/民族大団結
3大憲章定め5大方針提示/南当局の政策転換がカギ
分断の悲劇
5000年間、同じ国土で単一民族として暮らしてきた朝鮮人民は、今世紀に入って50年以上も2つに引き裂かれて暮らすことを強いられている。朝鮮半島が北と南に分断されたのは、米国の南朝鮮占領と分断政策に起因する。
1945年8月15日、朝鮮は解放された。同年2月のヤルタ協定に基づき、朝鮮を支配してきた日本軍の武装解除のため、北緯38度線を臨時境界にソ米が北と南に進駐、南では米軍が上陸して軍政を敷いた。そして米国は、自らの影響下にある国連の監視下で48年5月10日、南だけの「単独選挙」を強行し、「単独政府」(=分断固定化)を樹立しようとした。
しかし祖国解放後、新しい祖国建設に踏み出した南北朝鮮人民は、統一政府樹立を要求していた。
平壌で48年4月19日、南北朝鮮の政党・大衆団体代表者連席会議が招集され、「単独選挙」に反対するとともに、思想と理念、主義主張と党派を超越して全朝鮮人民が団結することを主張したことでも明らかだ。会議に参加した代表695人のうち、南代表は240人に及んだ。
こうして南北朝鮮人民の意思によって、「単独選挙」は破たんした。しかし米国は国連をして「単独選挙」を合法と認定させ、8月15日に李承晩「政権」をでっち上げた。
一方、連席会議の提議に基づき8月25日、南北朝鮮の全地域で朝鮮最高人民会議代議員選挙が行われ、北では自由選挙のもと有権者の99.97%が投票に参加し、南では地下選挙が行われ有権者の77.52%が参加した。その結果、平壌で最高人民会議第1回会議が招集され憲法を採択、9月9日に共和国創建が宣布されたのだ。
主席の遺訓
分断の歴史的経緯を見ると良く分かるように、「わが国の統一問題は、南朝鮮に対する外部勢力の支配と干渉を終わらせて全国的範囲で民族の自主権を確立し、引き裂かれた民族の血脈を再びつなぎ、1つの民族として民族的団結を実現する問題である」(金正日総書記の97年8月4日の著作「偉大な領袖金日成同志の祖国統一遺訓を徹底的に貫徹しよう」、以下「8・4著作」)。
金日成主席は、国の分断当初から祖国統一を民族至上の課題として掲げ、1つの統一路線を堅持し、運動を賢明に導いた。 @自主・平和統一・民族大団結の祖国統一3大原則(72年7月4日) A高麗民主連邦共和国創立方案(80年10月10日) B全民族大団結10大綱領(94年4月6日)を提示し、次代に統一した祖国を譲りわたそうとしたが、94年7月8日、惜しくも急逝した。その後、主席の統一への意志は総書記が遺訓として受け継ぎ、96年11月、分断の象徴である板門店を訪れた際、主席が示したこれらの祖国統一の原則と方途を祖国統一3大憲章として定めた。
総書記は、昨年の主席逝去3周年で喪が明けた直後、「8・4著作」を発表し、祖国統一3大憲章に基づき統一を実現することを強調。さらに南での「政権」交代後の4月20日、平壌での南北連席会議50周年記念中央研究討論会に送った4月18日付書簡「全民族が大団結し、祖国の自主的平和統一を達成しよう」の中で、 @民族自主の原則を堅持し A愛国愛族の旗印のもとに団結して B南北関係を改善し C外勢の支配と反統一勢力に反対してたたかい D全民族が互いに接触、対話を行って連帯・連合を強化する――という民族大団結5大方針を示した。
「8・4著作」が「祖国統一を実現するうえで提起されるすべての原則的問題を全面的に明らかにした」(昨年8月21日付労働新聞)ものならば、書簡は「民族大団結を実現することによって祖国統一を早く成し遂げられる道を全面的に明らかにした」(5月5日付労働新聞)ものである。
南執権者に質問状
南での「政権」交代後、北京では南北副部長級会談(4月)が開かれた。会談は南当局が肥料提供問題を提起してきたことと関連し、共和国側の提案で設けられた。しかし南側が離散家族面会所設置の時期の約束がなければ肥料提供はできないとの「相互主義」を掲げたことで決裂した。
一方、祖国平和統一委員会書記局は8月20日、南の執権者への公開質問状を発表。これは金大中「大統領」が同月14日に発表した「対北提案」と関連したもので、金大中に真の和解と団結、平和統一の意思があるのかを質している。
南当局が今後どのように政策を転換するのか。総書記が示した愛国愛族の立場から民族自主の原則を堅持するという、民族大団結5大方針に対する対応が注視される。(基、おわり)