語り継ごう20世紀の物語/姜福心さん
黙々と働き、貧しさ、封建制と戦った
極貧の中、「学ぶ」ことを渇望/嫁いびり、辛抱と忍従を強いられ
汽車が長い鉄橋を渡る。姜福心さんが、渡日した60年前と同じコースを、山口県下関市から防府へと辿ってみた。車窓に広がる景色は何もかも一変した。土手の斜面だけが、昔と同じように色とりどりのコスモスで覆われている。
姜福心さん。76歳。現在は防府市にある梁川鋼材グループの会長。パチンコなど関連会社も手広く営む。防府駅前から自宅までタクシーに乗ると、女性運転手さんが「あの、梁川さんね」と、立志伝中のヒロインとしてこの辺りで知らぬものはいない、と教えてくれた。
数百坪の敷地に総レンガ造りの屋敷。そこを訪ねたら、身長150センチほどの小柄なハルモニが顔を出した。姜さんその人だった。黄色のTシャツと白いロングスカートがよく似合う。
日本の植民地支配の最中の1924年、全羅南道珍島で生まれた。両親と男5人、女7人の兄妹。10歳の頃には、他家に奉公に出た。「その頃、あんまりひもじくて、御飯を盗み食いしたのがバレてこっぴどく主人に叱られたこともある。村には乞食も多く、米びつが空っぽの我が家にも物乞いが来た。そんな時、1日1食しか食べていないオモニが、自分のものを分けてあげていた」。
そんな暮らしの中で、姜さんは「学校にいきたい」と渇望した。しかし、秋の収穫物を根こそぎ日本と地主に奪われてしまった極貧家庭では、女が学校へ行くことなど夢のまた夢。向学心を捨て切れない姜さんは、学校に通う従兄弟に紙に字を書いて貰い、それを教本にして「アーヤーオーヨー」と必死に独習を重ねた。
紙も鉛筆もない中で、毎朝、柴をたいた灰の上にそれを小枝で書き、1字1字覚えていった。「1週間も経つと、家族の名前が全部書けるようになり、もううれしくて、うれしくて。牛小屋のすすで真っ黒になった泥の壁に、覚えた字をみんな書いた」。
1939年の初頭。16歳で同郷の梁福周さんと結ばれた。夫は23歳。「何も持って来なかった嫁をよくも我が家に入れたものだ。私はみんなの前で大恥をかいた」とその日から姑の嫁いびりが始まった。
農家の嫁の仕事は、山のようにある。水汲み、臼に穀物を入れて長い杵でつき、その糠は箕で取り除き、御飯を炊く。機織り、裁縫、洗濯、糊張り、家畜の世話から野良仕事…。「今思えば、昔の女性は、奴隷より酷い苦労をした。それでも、良き妻、良き嫁、良き母となることだけが、女の名誉だとされ、辛抱と忍従を強いられた」。
あまりの貧しさから、夫が日本行きを決行したのは、その年の2月の事だった。珍島から麗水へ。そこから連絡船で下関、防府に来た。ここで塩田で働く「浜子」の仕事についた。
「ジリジリと太陽が照りつける炎天下での作業は地獄だった。全身から滝のような汗が噴き出し、それが太陽熱でアッという間に乾いて、体は塩をまぶしたようになる。皮膚はチリチリに焼けて、上半身はまるではげねずみのようになった」。
日本に来る時、「一旗あげる」つもりでいた夫にとっても、過酷な現実は、堪え難いものだった。夫は仕事を転々とした。炭坑の切羽にも行った。「そこでの仕事も地獄だったと夫がよく言っていた。落盤事故で命を失っても、故郷に連絡すらしない、見舞金すら出さない、逃亡を企て、なぶり殺された同胞らもいた。金日成主席が亡国の民の境遇は、喪家の犬にも劣る、とおっしゃっていたが、その頃の暮らしは本当に悲惨だった」。
2男3女が次々と生まれた。夫の仕事も日本の敗戦を境にして、「浜子」から自転車、土木、飯場へと変わっていった。戦後の混乱期と食糧難。働いても、働いても食べられず、夫はプイと家を出て、何日も戻らない日もあった。
ある日、突然舞い戻った夫が4、5人の客を連れてきて、「おーい、お客さんだよ、飯を出せ、酒を出せ」と言う。言う通りにしないと大変なことになる。
でも一番辛かったのは、「日本に来て、毎日のように、字も言葉も分からないお前では、俺の人生は台なしだ」となじられた事だ。鬱憤を吐き出すような夫の言葉が、姜さんの負けず嫌いの心に火をつけた。「子供の教科書をめくっては、何度も何度もひらがなや漢字を書いて字を覚えた。今では、夫が生前、叱咤してくれたことが、無学だった私をここまで引き上げてくれたと感謝している」と語る。
夫と同じ様に「浜子」として働く傍ら、農家の田植えで労賃を稼ぎ、ヤミ商売、飯場の賄いをし、その合間に朝鮮飴を作って、売り歩いた。六年間で、約二十五万円(現在では四、五千万円)のお金をためた。それを元手に夫がスクラップの仕事を始めた。裸一貫で渡日して、勤勉に、実直に生きた夫の苦労がやっと報われ、商売が軌道に乗るようになった頃の喜びは忘れられない。
その頃の民族差別は半端じゃなかった。「姜さんは顔がツルツルしているけど、朝鮮人は小便で顔を洗うから、そんなにきれいだってね」と農家の女に侮蔑されたことは50年たっても忘れられない。
「国を奪われたから馬鹿にされた。だから子供を、しっかり勉強させようと、全部の子に民族教育を受けさせ、大学まで出した。本当に誇らしく思っている」。学ぶことがどんなに大切かをよく知っている姜さんは、夫と共に朝鮮学校に寄付したり、祖国への貢献を続けた。夫妻に祖国から感謝状が贈られている。
「我が民族の立ち遅れている部分は、男尊女卑の風潮が根強いということだ。女をないがしろにしては、家も国も発展しないということを若い人たちは肝に命じてほしい」
黙々と、こまねずみのように働き続けた一生。貧しさと女を見下す封建性とたたかい続けたその顔には、美しいシワが刻まれている。
珍島には、「亡くなった人の魂は、天に上って星になる」という言い伝えがある。姜さんは苦楽を共にして10年前に亡くなった夫もきっと星になって、毎夜、空から故郷を眺めているだろうと信じている。(朴日粉)