近代朝鮮の開拓者/企業家(1)安煕済(アン・フィジェ)
1876年、わが国が鎖国をやめ、世界に向かって開国をして以来、開化期をへてより日帝時代に至る期間に、民族性を守った企業家、民族資本家、そして文化人、女性たちを紹介していく。
安煕済(アン・フィジェ、1885年〜1943年)
独立運動家、企業家。号は白山。本貫は順興。1914年に運動の資金を得るため、白山商会を経営。その後、白山貿易株式会社として発展させ、青少年の教育に従事。59歳で獄死。
利益を独立運動に/学校建て、青少年育成に励む
1910年、朝鮮は日本によって国の自主権を奪われてしまった。しかし、資産家、知識人、軍人から農民に至る各界各層の志ある人々は、それぞれ力を合わせ、様々な方法を通じて、自主権回復のための運動を展開していった。
ここに取り上げる安煕済は地主の出身だが、民族独立運動のため、愛国的な地主たちの出資によって白山商会を作り、その利益金によって運動を支援しようという、当時にあっては画期的なアイデアを実行に移した人物である。
彼の一生を簡単にたどって見よう。
李朝末期の1885年、慶尚南道宜寧郡富林面立山里で生まれた。晋州市の北にあたる。生家は、大地主とまではいかないが豊かな家で、幼い時に書堂(ソダン=初学者を対象にした私塾)で漢学を学んだ。その後、近代の新学問を学ぶため、1905年にはソウルに出て普成専門学校や、養正義塾で学んだ。
卒業後、郷里に戻り志を共にする友人たちと民族啓蒙運動を行い、後進の養成のため、各地に学校を建設しようと奔走した。自ら子供たちを教え、また校長にもなった。
しかし、1910年、国権を失うや、仲間たちと共に国外に亡命。中国の北間島や、ロシア沿海州で活動し、「独立旬報」という新聞を刊行するが、3年後帰国する。そして、釜山に出て有志から資金を集め、白山商会を設立するのである。
同商会は、独立運動の資金源となり、また、運動の連絡所となった。
はじめは穀物、綿布、海産物などを扱い、1919年には慶尚道の大地主たちの出資を得て、資本金100万円の白山貿易株式会社となった。白山は彼の雅号である。
同社はその後、大邱、ソウル、元山、奉天(旧満州)につぎつぎと支店を出し、事業は順調に拡大していったが、独立運動に資金が使われていたので決算は常に赤字であった。しかし、株主たちはその理由を良く知っていたので、不平を口にすることもなく、欠損を補ってくれた。
同社は、株主の同意を得て、育英会を作り、前途有望な青少年に学資を与えて将来に備えた。
日本の警察は、しだいに疑念をつのらせ、会社を襲撃して証拠をつかもうとするが、巧みな帳簿の操作により、拘束されては免訴となった。
彼は、後に「中外日報」社長、また檀君を祭る大○教(○は人偏に宗)にも入信する。が、日本の警察はこれを口実に彼を検挙し、拷問を加えて死に追いやった。1943年8月、享年59歳であった。(金哲央、朝鮮大学校講師)