わがまち・ウリトンネ(2)/山口県下関市(2) 金正三、姜海洙
「募集」名目の強制連行/最盛期は1日1万人以上が上陸
金正三さん(80)は1941年末、故郷の慶尚南道で、「募集」の名目で日本の官憲によって捕らえられた。そのまま関釜連絡船に乗せられ、翌42年の元旦に下関に着いた。23歳の時だ。
金さんは愛知、静岡との県境に近い山間の、長野県にある平岡ダムの建設現場に連行され、強制労働に従事させられた。ちなみにダムが完成したのは戦後の51年。当時としては日本最大級のダムで、ここで発電された電力は戦後の日本復興の原動力になった。これほど大規模で、戦時中も日本にとっては重要な建設対象だっただけに、厳しい監視のもとで建設が行われたことはいうまでもない。
「朝早くから夜遅くまで働いたが、月給もまともにもらえなかった。日本のためになぜ朝鮮人がこれほどまでに働かなければならないのか。バカバカしい」と思った金さんは、同年5月に逃走。運よく監視の目をくぐり抜け、4日間かけて山中を抜け出した。
静岡、東京など各地の労働現場を転々とし、45年8月15日の祖国解放を福岡で迎えた。その後、兄を頼って山口に戻ってきた。当時を思い起せば起すほど、怒りが頭をもたげてくるのか、声を荒げて語る。青春時代、国を奪われた民族の恨み、悲しみ、悔しさを吐露するかのようであった。
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日本に渡ってきた朝鮮人は1905年当時、303人に過ぎなかったが、祖国解放時点では240余万人に達していた。強制連行者数は150万人を超えた。
強制連行、そして止むにやまれず糧を求めて朝鮮人が初めて日本に足を踏み入れた地である下関。解放後は、帰国のために人々が集結した場所である。だが、下関港は米軍による関門海峡の機雷封鎖で使用できず、博多港と山口県の仙崎港が利用されたため、多くの同胞たちはそのままこの地に残り住むことになった。
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メモ 1937年、日本の本格的な中国侵略(中日戦争)が始まると、多くの日本軍が戦線へと出兵。そのため日本は国内で不足する労働力を確保するため、多くの朝鮮人を強制連行した。「国家総動員法」に基づき「国民徴用令」が公布(39年)され、朝鮮人にも適用・実施された。
しかし、朝鮮半島では民族的抵抗を恐れて募集(39年)、官斡旋(42年)、徴用(44年)と形を変えて実施。連行先は日本各地の炭鉱・金属鉱山、ダム、鉄道・道路工事、軍需工場、飛行場、地下工場(トンネル)建設など危険と直面した現場。
42年、関釜連絡船は朝鮮人移送のため、1日4隻が往復し、最盛期には1日1万4000人が上陸したという。