わがまち・ウリトンネ(3)/山口県下関市(3) 金正三、姜海洙


44年当時、約3万人が住む/ツルハシ手に学校建設

 関釜連絡船で渡日した朝鮮人の中には、身を寄せるところもなく、下関上陸後、直ちに路頭に迷うものも相当数に上ったという。彼らは、港付近でテントを張って飯を炊き、生活していた。

 JR下関駅西口から北側へ向かうと、グリーンモールという商店街が広がる。焼肉屋や朝鮮食料品店、衣装店などが立ち並ぶ。姜海洙さん(76)によると、戦前、そして解放直後は戸板一枚でコチュカル(唐辛子の粉)やミョンテ・(すけそうだら)、野菜や魚、古着を売る同胞たちの露店がずらりと並んでいたという。

 この辺一帯は当時、大坪町と呼ばれ、「昭和館」という下関市の朝鮮人収容施設があった。

 近年、新館が完成(34年)された際のパンフレット「内鮮融和施設・昭和館の概要」が発見されたが、それによると、33年には6347人が宿泊していた。

 同時に発見された44年12月13日付の館長のメモには、「市内ノ半島人人口約3万人。家族ノ有ルモノ7割。独身者3割。子供一家平均5人以上。1日ノ収入10円。10円デハ食ベテイケヌ」とあり、当時の苦しい生活状況を伝えている。

 下関市史によれば、「昭和館」は朝鮮人を保護救済するための施設として、28年に開設された。しかし、保護救済とは名ばかりで、それを口実に朝鮮人労働力を確保し、彼らが逃亡しないよう1ヵ所に集めて監視する点に目的があった。

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 ところでこの「昭和館」、解放直後は朝鮮人帰国者の宿舎として使用された。その後、46年4月に開設された下関初等学校(現下関朝鮮初中級学校)の校舎として使われたが、49年10月、日本当局による朝鮮人学校「閉鎖令」によって学校は閉鎖された。しかし56年4月、地域の同胞たちによって下関朝鮮初級学校が開設されるとともに、よりよい「民族教育の場を」と、力を合わせて丘に位置するこの建物を壊し、新しく校舎を建てた。同時に、山を削り土地をならして運動場も設置したという。

 学校建設に参加した金正三さん(80)は、「子供たちに朝鮮語を学ばせ、民族の心を継いでいってほしい一念で、同胞1人1人がツルハシを手に建てたものなんです」と当時を思い出す。

 その後校舎は60年と63年、96年の3回にわたって、「同胞らの心のよりどころ」として新・改築された。巣立った生徒も多く、金さんの子供6人と孫3人も同校の卒業生である。それに他の孫3人は在学中である。

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 それから半世紀、同胞の世代交代は進み、町並も大きく変わった。

 港開発計画により、関釜連絡船に使われた「桟橋」は撤去(69年)され、かつての姿は残っていない。(羅基哲記者)