わがまち・ウリトンネ(4)/山口県下関市(4) 金正三、姜海洙
いまも2000人が暮らす大坪/チャンチにつきものの喧嘩
JR下関駅西口の商店街、グリーンモールをさらに北へ向かうと、戦前から多くの同胞が住む、かつての大坪町がある。
市営島越火葬場や下関刑務所があったことから、多くの日本人がこの一帯に住むことを嫌がり、そのあいたスペースに行き場のなかった同胞たちが住み始めたのだ。土木の人夫や船の荷物を積み下ろす仲士(なかし)で生計を立てた。
解放後は、7000人ほどの同胞がそのまま住んだ。
一家族10人程度というのが普通で、「部屋が2間(2畳)もあれば、その家は大きい方だった。食べ物も麦飯や大豆などがほとんどだったが、食べる物があれば近所で分け合った」と、姜海洙さん(76)は言う。
貧しい生活の中での最大の楽しみは、結婚式などのチャンチ(祝い事)だった。
「その日暮らしの苦しい生活が続く中で、チャンチは、その苦しさを吹きとばす特別の日だった。飲んで食べて踊って、そのあげくに決まってけんかである。けんかなしのチャンチなどなかった。けんかが始まると、席は盛り上がり、チャンチは成功だった」と語る姜さん。
同胞が肩を寄せあって暮らす地域ならではの光景である。
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同胞が助け合い暮らしてきたトンネも、今ではすっかり変わった。
50年代に入り、中国などからの日本人引揚者も住み始めた。そのため55年に日本の小学校(神田小学校)が新設された。60年にはJR下関駅前の土地区画整理事業がスタートし、61年には火葬場が廃止され、90年には刑務所も閉鎖(現在は市民センター)されるなど、街のイメージは一新した。
このような時代の流れの中で、大坪町は69年に現在の神田町、東神田町、西神田町、中央町などに分離された。
70年代に入ると、高度成長に伴い同胞たちの生活にも徐々に余裕が生まれ、さらに2世たちが成長したこともあって、家を新築、他地域に引っ越す同胞も現れ始めた。それでも現在、市内在住同胞の半分に当たる約2000人が住んでいる。
下校時間、トンネを歩くと、ウリマル(朝鮮語)が耳に飛び込んでくる。ウリハッキョ(朝鮮学校)の生徒たちだ。
「10年ほど前までは、普段でも1世のハルモニたちがチマ・チョゴリ姿で歩いていた」という金正三さん(80)だが、そうした光景は、今では一部の集いの場でしか見られない。
(この項おわり=羅基哲記者)