近代朝鮮の開拓者/企業家(2)兪吉濬(ユ・ギルチュン)
兪吉濬(1856〜1914年)
開化運動家、企業家。啓もうと産業の開発に務める。日本、米国への留学生第1号。軟禁中に「西遊見聞」を執筆、出版。その後、「労働夜学読本」などを出版。日本からの男爵位授与を拒否した。
西洋文明を吸収/開花思想の普及に努力
金玉均(1851〜1894年)をリーダとする開化派に属し、国の近代化のために努力した。
1976年、開国した当時の政府は「紳士遊覧団」を組織して、60余名の高官、知名人を明治維新後の日本に送った。
兪吉濬は魚允中の随員として選ばれ、日本の財政制度を調べる任務が与えられた。
彼らは3ヵ月間、政府機関、鉄道、税関、造幣、製糸工場、銀行などを見学して帰国することになった。その時、兪吉濬は、1人残って福沢諭吉が設立した慶応義塾への入学を希望し、許可された。日本への留学生第1号である。
彼は留学中、福沢の出版物、とくに新聞の持つ役割に注目し、帰国すると同時に新聞を発行しようとするが、保守派の反対にあって挫折に追い込まれる。
しかし、また幸運が舞い込んだ。1882年5月、「韓米修好通商条約」が結ばれ、米使節団を送るにあたって随員に選ばれたのだ。使節団はワシントンで国書を提出したのち、各地を参観し、初めて見る西洋文明に強烈な印象を受けた。
彼らは任務終了後、残って留学することを希望し、国費留学生となる(米留学生第1号)。
兪はすでに東京大学教授の経験があるモースの指導を受け、彼の紹介でマサチュセッツ州のダンマ・アカデミィの高校3学年に入ることができた。
ところが、1884年12月、開化派の人々が起こした甲申政変(注1)の失敗をきっかけに帰国を決心する。
ヨーロッパ各国を見学した後、85年12月に帰国するが、開化派の一味として逮捕された。そして、捕盗大将(注2)ハン・ギュソル(韓圭○)の家に7年間軟禁された。その後、新知識の所有者として政府に重用されるが、金弘集内閣の崩壊と共に日本に亡命した。亡命生活は11年間つづいた。
帰国後は、教育の振興と民間産業の開発のために力を尽くした。国民経済界会長、湖南鉄道会社社長、朝鮮貿易会社設立発起人、愛国婦人会顧問などを任され、商工人のため奮闘した。(金哲央、朝鮮大学校講師)
注1 1884年12月、開化派の金玉均らが起こしたクーデター。3日天下(4〜6日)に終り、多くの人材が犠牲となった。
注2 李朝の捕盗庁の長官で、現在の警察の長にあたる。