わがまち・ウリトンネ(5)/福岡・小倉(1) 金顕吉


軍需関連施設が密集/炭鉱、工廠、飛行場建設

 小倉(北区、南区)には現在、約3900人の同胞が住んでいる。北九州地域では最も多い。今は、その面影もなくなりつつあるが、1945年8月の祖国解放直後は、この地域にも同胞が密集して住むトンネが形成されていた。

 金顕吉さん(74)は、当時をふり返り次のように語る。

 「小倉炭坑や陸軍造兵廠小倉工廠(工場)、曽根飛行場建設、浅野セメントなどで働いていた同胞とその家族が、解放後もそのまま残った。帰国をしようと九州各地から集まったものの、その夢を果たせなかった同胞たちも住むようになった」

 金さんは18歳の時、43年5月に官斡旋で全羅北道から福岡県飯塚市の住友炭坑に強制連行され、そこで解放を迎えた。小倉には53年に移ってきた。

 募集による強制連行が始まる前年の38年末、福岡県下の朝鮮人数は6万105人で、全国5位だった。うち、北九州にはその半数が住んでいた。当時の小倉の同胞数は八幡(8936人)、門司(5652人)に次ぐ4145人である。

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 小倉炭坑の同胞飯場は、現在の小倉北区足立、神岳、宇佐などにあった。炭鉱は戦後に閉鎖された。小倉工廠は現在の同区大手町にあった。588の炭坑からなる筑豊炭田と、戦前に国内半分の鉄をつくっていた八幡製鉄所に近く、豊富な石炭と鉄を確保して兵器を作るのに有利な地理的条件にあったことから33年、東京から移転してきた。

 浅野セメントは現在、日本セメント(同区末広)に名前を変え、曽根飛行場は北九州空港(小倉南区曽根)となった。

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 メモ 74年、朝・日合同による九州地方朝鮮人強制連行真相調査が行われた。小倉炭坑で働いていた同胞などの証言によれば、40年5月25日、小倉沖の海底付近を掘っていた際に落盤事故が起き、同胞26人を含む46人が死亡した。また、42年頃には120余人の同胞が強制連行されてきた。彼らは日本人や、強制連行者とは異なる同胞自由労働者と区別され、有刺鉄線に囲まれた「納屋」と呼ばれた寮に入れられた。午前6時から午後6時までの12時間労働で、作業は手掘り。食事は豆カス、トウキビ、そして海水をくんで温めた汁しかつかなかった。

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 45年8月6日、広島に原爆が投下され、9日には大軍需生産基地だった北九州に原爆搭載機が飛来したが、天候が悪いために断念、長崎に投下された。

 その後、祖国が解放されたが、少なからぬ同胞が、帰国せずそのまま住みつづけた。

 また北九州の門司、戸畑などの港には、帰国のために各地から同胞たちが集結して船便を待ったが、人数があまりにも多かったため、乗船できない人たちもいた。そのため、滞留者は日増しに増え、小倉に生活基盤を築く同胞も現れたのである。(羅基哲記者)