わがまち・ウリトンネ(6)/福岡・小倉(2) 金顕吉
母国語教育に強い熱意/49年に早くも高校建設
「小倉は、九州における民族教育の拠点でもあるんですよ」
祖国解放後、民族学校の教員となった金龍九さん(75)はこう語る。
小倉北区明和町にある総聯小倉支部事務所から、公園をはさんだ読売新聞社までの100余メートルの間に1946年、小倉朝連小中学校が開設された。49年には県下で唯一の高校も併設された。
当時、小倉には約6〜7000人の同胞が住んでいた。2度と言葉を奪われた植民地支配下の生活を繰り返すまいと、子供たちに母国語を学ばせるのが目的だった。
だが49年10月、日本当局の朝鮮人学校「閉鎖令」によって、同校をはじめ全国すべての学校が強制的に閉鎖された。そのため県下の同胞らは民族教育を守るために、日本の学校で「民族学級」を始めた。小倉では日本学校の授業が終わった午後の1時間、朝鮮学校教師が講師の資格で足立小、曽根小、貴船小、足立中、篠崎中学の教室を借りて運営した。
そして、総聯結成翌年の56年4月、民族教育の場を取り戻そうと、県下の同胞らが立ち上がり、九州朝鮮中高級学校が創立された。初級部より先に中高級部を設置したのは、7年間にわたる学校閉鎖によって母国語を学べなかった日本学校在学の中学生たちも通えるようにするためだった。
場所は博多や飯塚方面から通う生徒の交通の便宜を図って、JR鹿児島本線と筑豊本線が交差する折尾駅近くに建てられた。同胞らは苦しい生計をやりくりして、建設資金をカンパしたという。
金さんは同校創立2年後の58年4月、高級部の教員となり、大分県から小倉に引っ越してきた。多くの子供たちが学校にろくに通えなかった植民地時代、故郷の慶尚北道で中学(5年制で現在の高校に相当)まで通い、解放を迎えた長崎の朝連小学校で教えた経験を生かしてのことだ。
「子供たちが自然に母国語を学び、朝鮮人として堂々と生きてもらいたかった」
中学時代、創氏改名を最後まで拒否したため、品行に最低ランクを付けられ、大学への進学を断念せざるを得なかった。20歳の時、43年に渡日したのも学ぶためだった。
◇ ◇
メモ 創氏改名とは、朝鮮人から姓を奪い、日本人化するための政策として39年11月、朝鮮総督府が公布した。
◇ ◇
60年1月、小倉朝連小中学校校舎を使用して小倉朝鮮初級学校が開校。79年には全国で2番目の単設朝鮮幼稚園、小倉幼稚園が小倉北区足原に新設された。民族教育に対する、トンネ同胞の熱意の表れと言えよう。
小倉朝鮮初級学校は68年1月、八幡朝鮮初級学校と統合し、JR黒埼駅近くに新校舎を建て、校名を北九州朝鮮初中級学校に変更した。(羅基哲記者)