近代朝鮮の開拓者/企業家(3)李丙斗(リ・ビョンドゥ)


 李丙斗(1890年頃〜1960年頃)

 平安南道徳川で生まれる。ピョンヤンにわが国最初のゴム靴工場を設立(1919年)。
 朝鮮民族独特の「コムシン」を発案した。地場産業としての発展に力を尽くした。

「コムシン」を発案/ゴム靴工業の先駆け

 ピョンヤン(平壌)は、1910年代から解放までの間に、ソウルよりも早く民族資本によるゴム靴工業とメリヤス・靴下工業が発達したことで知られている。

 特にゴム靴工場は、解放前にあった計11のうち10社が朝鮮人の経営で、日本資本に対し圧倒的に優位な地位を保って操業していた。

 李丙斗は、19世紀の終わり頃、平安南道徳川のごく貧しい家庭に生まれた。山の中の貧しい暮らしから抜け出し、何か大きなことをしてみたいと、14〜5歳の頃ピョンヤンに出てきた。

 そして、病院の雑役夫となった李は、入院していた崔奎鳳(チェギュボン)と親しくなった。崔は、ピョンヤンで有名な金持ちの息子であった。

 いつも独立の道を考えていた李丙斗は当時、日本製のゴム靴が青少年の間で人気の的になっていることに目をつけた。彼は崔の助けを借りて、日本の製造元に試験的に数十足のゴム靴を郵便小包で送ってもらい、それを持って個別に訪問販売を始めた。

 その利益で彼は、ピョンヤンにゴム靴専門店を出した。それから2年程の後、ゴム靴ぐらい自分たちで製造できるのではないかと考えるに至った。

 

 彼の行動は早かった。日本にある製造元に工員となって住み込み、その製造工程とゴムの配合技術を習った。3ヵ月後には、機械と原料を買い入れて帰国した。

 そして1919年、ピョンヤン最初のゴム工場を5人の株式で始めた。

 崔の親子(崔亨俊、崔奎鳳)と李丙斗、崔昌煥、李成根である。資本の大半は崔氏が出し、李丙斗は技術責任者となった。

 また、「正昌(チョンチャン)ゴム工業社」の工場設立の時も李は、創案作りに参加した。この工場は後々の「ピョンヤンゴム工業」の元祖として名高い。

 李は、西洋式のゴム靴に朝鮮伝来の個性を生かした。すなわち、男ものは従来のチプシン(わらじ)式に、女ものは爪先が丸いこぶのあるポソン(注)式の小船形にと。これが、大衆から大きな支持を受けた。

 象牙のような白色に、伝統的な曲線。長持ちして水がしみ込まない。こうして「コムシン」は、朝鮮民族のはき物となった。

 その後、ピョンヤンの民族系ゴム靴工場は10ヵ所となる。工場主はみな愛国的なクリスチャンで固く団結していた。(金哲央、朝鮮大学校講師)

 注=白い布で作った伝統的な女性用のたび。