わがまち・ウリトンネ(8)/福岡・小倉(4) 金顕吉


北九州の誕生が転機に/今も変わらぬ助け合い精神

 1960年代に入ると、小倉地域・同胞たちの主な仕事だった土木、飲食、養豚業に加え、パチンコなどを始める同胞が現れ始めた。

 このような変化をもたらしたのは、日本社会が敗戦の混乱期をくぐりぬけ、高度成長に向かおうとするなかで、この地域に北九州市が誕生。少しでも良い生活を目指そうとする同胞たちの活躍の場が、限られてはいたものの生まれ始めたからだ。

 教員生活などを送り、小倉トンネと共に歩んできた金龍九さん(75)は、「当時、われわれ1世たちは40、50代の働き盛りで、がむしゃらに頑張った。子供たちをしっかりと学ばせる一方、少しずつたくわえたお金を元手に、新たなジャンルに手を広げていった」と語る。

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 メモ 北九州市は63年2月、小倉と門司、戸畑、八幡、若松の5市合併によって誕生した。それによって100万人を越す人口を持つ政令指定都市となり、小倉市は小倉区となった。さらに74年、北区と南区に分区された。

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 新生の北九州市は、都市計画に基づき、道路や公園などの公共施設を積極的に整備していった。

 下請け、孫請けと細々と土木をやってきた同胞にも、市や区から直接仕事を受けられる機会が与えられるようになった。

 また、100万人の大都市の出現によって、商業・サービスを中心とする第3次産業が急速に成長していった。ここに、同胞が入り込む余地が生れ、パチンコ産業にも進出していった。

 今では世代交替が進み、1世らが築いた土台は、2世、3世へと受け継がれている。

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 現在、小倉トンネの在日同胞の数は約3900人に減った。しかし、互いに助け合い、生活していこうとする精神は今も昔も変わらない。

 核家族化が定着するなか、日本の社会では顔も知らず話も交わさない隣人が急増しているが、小倉はそうではない。

 若い世代の中で、仕事や家庭、子供のことなどで悩みが生じれば、トンネの同胞たちが知恵を出し、解決策を講じている。地域に多い同業者との情報交換も進み、付き合いの輪も広がっている。

 「トンネのきずなが今でも固く結ばれているのは、2世、3世ら若い世代が、1世たちの生き様を見て、良い習慣を引き継いできたからだ。同時に、彼らが民族教育を受け、朝鮮人としての誇りを持って生きていくことを、心にしっかりと刻み込んだからだ。時代がいかに変わろうとも、このことだけは代々受け継がれていくだろう」(金龍九さん)(この項おわり=羅基哲記者)