わがまち・ウリトンネ(9)/福岡・八幡(1) 文炳浩、韓相奎


製鉄所関連の土木人夫が主/38年前、約9000人が住む

 「製鉄の街」、八幡。ここには戦前から、国内消費量の半分の鉄を生産していた日本製鉄株式会社(現在の新日鉄)の八幡製鉄所があった。

 文炳浩さん(78)は、1933年9月に渡日して以来、60数年間、この街に住みつづけてきた。

 「製鉄所の拡張や、製鉄所と関連した土木建設、運搬輸送、雑役など、人夫としての働きぐちがいろいろあったから、戦前から同胞が多く住んでいた」

 文さんのアボジは、筑豊などから八幡製鉄所に、船で運ばれてきた石炭を下ろす人夫だった。

 「私が故郷(全羅南道)にいた時、アボジは家族を養うため関釜連絡船に乗り、八幡まで出稼ぎに行っていた。一度家を出れば、数ヵ月間は帰ってこなかった。帰ってきても、稼いだお金を置いては、またすぐに八幡に戻っていった」と、故郷で過ごした幼少期をふり返る。

 もともとは農家だったが、農業だけでは家族を養っていけなかった。八幡で多くの朝鮮人が人夫として働いているとの話を耳にし、出稼ぎに行くようになったのだ。

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 メモ 八幡製鉄所が操業するまで、八幡は人口わずか1300余人(1896年)の一農村に過ぎなかった。ところが操業した1901年には、約6600人に人口は増えた。

 文さんが八幡に来る4年前の29年には、約14万6000人にもふくれ上がった。

 朝鮮人労働者は38年末当時、北九州全体(約3万人)の中で最多の8936人が居住していた。

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 故郷と八幡を行き来していた文さんのアボジは、仕事のある日本で、家族と共に落ち着いて暮らしたいと33年9月、家族を八幡に呼び寄せた。

 12歳の文さんはオモニたちと日本に渡り、八幡製鉄所近くの飯場で生活するようになった。

 「アボジは仕事を得るため、毎朝5時には家を出て、運よく仕事にありつけば、帰宅はいつも深夜だった。しかし、西南九州や中・四国から集まってきた日本人労働者も多く、アボジが仕事にあぶれて家でぶらぶらした日もしばしばあった」

 その日暮らしの生活だったが、麦飯すら食べられなかった日もある故郷での生活より、それでも日本の方がまだましだったという。

 糧(かて)を求めて渡日し、日本で生活基盤を築いていった、1世同胞らのもう一つの顔である。(羅基哲記者)