近代朝鮮の開拓者/企業家(4)孫昌潤(ソン・チャンユン)
孫昌潤(1890〜1950年頃)
平安北道竜岡郡の貧農の家に生まれる。綿糸販売業を経て18歳の時に、わずかな編み機で靴下生産を始める。以後、編み機の機械製作所を作り、30年代に東洋屈指のメリヤス工場に発展させた。
東洋屈指のメリヤス工場を設立
ピョンヤン(平壌)で1920年代頃から集中的にゴム靴生産工場が操業を開始したことにともなって、わが国で初めての靴下(ヤンマル)製造工業も発達した。
20世紀に入って、本格的に「開化の風」が吹き始める中で、ゴム靴が人びとの間に普及していった。
それと同時に前号で述べたように、伝統的な「たび」(ポソン)に、西洋式の靴下が取って変わっていった。 当初、日本製の靴下が入ってきたが、あまりにも高価でとても大衆には受け入れられなかった。
ここに目をつけて、朝鮮産の綿糸を使い、手工業的に小規模な靴下製造を始めたのが、孫昌潤(ソン・チャンユン)たち、ピョンヤンの小商店で働いていた人々である。
孫は1903年、12歳の時、綿糸販売業に従事しながら小さな靴下工場を経営していた李鎮淳(リ・ジンスン)の「共信商会」の店員となった。
自立の機会をうかがっていた孫は、18歳(1908年)の時、これまで預金しておいた金で数台の靴下編み機を買い入れ、靴下を作り始めた。店名は先輩格の「共信商会」にならって、「三共ヤンマル工場」と命名した。
この頃、ピョンヤンには孫と同じように、靴下の需要を見越して、何台かの編み機で、手工業的に靴下製造を始めた人が何人もいた。方潤(バン・ユン)、呉敬淑(オ・ギョンスク)、朴台泓(パク・テホン)、李昌淵(リ・チャンヨン)たちである。
ゴム靴工場を始めた地主たちとは異なり、みな貧しい家の出身で、店員から身を起こした人たちだ。
彼らは勤勉さとそれによって得たわずかな利潤を積み立て、計画的に運営していく企業家精神、つねに新しい事業を開拓していく進取性、信用を重んじた。社会に有用な仕事をすればそれ相応の報償を得られるであろうという信念を抱いて、クリスチャンとして互いに団結した彼らは、日本資本の進出を防ぎ、事業を次々と展開していった。
孫は、ゴム靴の普及にともない、大衆の服装が変化して行くのを見て、メリヤス衣料の生産、防寒用として目だけを出す目出帽、手袋や、タオルなどの生産を始めて大きく成功した。
また、編み機の自家生産をめざして機械製作所を作り、1930年代には東洋屈指の大規模メリヤス工場に発展させた。
35年には、技術者養成のため平安工業学校を設立し、その夜間部を併設して工場労働者も進学できる道を開いた。
こうしてピョンヤンは、日本の植民地下においても民族資本によるゴム靴、靴下、メリヤス工業の大きな拠点となったのである。(金哲央、朝鮮大学校講師)