わがまち・ウリトンネ(12)/福岡・八幡(4) 文炳浩、韓相奎


「労働者の街」から「商業の街」へ/バラック跡に市営体育館

 1938年当時、八幡には約9000人の同胞が暮らしていたが、祖国の解放と同時に大多数の同胞が故郷へと帰っていった。それから55年がすぎた今、約2700人が住んでいる。

 同胞たちが多いのは、屋敷(八幡西区)、八王寺(八幡東区)、穴生(八幡西区)などの地域である。

 かつてはトンネを形成していたが、今はその面影はなくなりつつある。

 文炳浩さん(78)の案内で、八王寺地域の戦前から多くの同胞が住んでいた場所を訪れてみた。

 しかし人が暮らしていた形跡はまったくなく、市営体育館が建っていた。

 「ここら一帯は小高い丘になっており、同胞たちは丘の下の谷にバラックを建てて住みこんだ。地理的に見て、交通は不便で、大雨でも降るとひとたまりもない。まず、日本人は住まない。だから同胞たちが入りこんだのだ。そして彼らのほとんどは、土方や人夫をしながらようやく食べていた」

 ここに住んでいた同胞は、今どこに住んでいるのか、文さんに聞くと、「もう少し上にのぼった所にある団地に住んでいる」との返事が返ってきた。

 解放前から同胞が暮らしていたトンネがなくなったのは、小倉と同様、63年2月の小倉、門司、戸畑、八幡、若松の5市合併による北九州市の誕生が契機だった。八幡市は八幡区(74年には東区と西区に分区)となり、都市開発事業が盛んに行われたのだ。

 北九州市は、八王寺地域に市営体育館の建設を計画(74年完成)し、同胞たちにトンネからの立ち退きを要請。代替住居として近くに建てた市営住宅八王寺団地(72年に完成)への入居を求めた。

 同胞たちはその要請を受け入れ、すべての同胞が団地に移った。そしてバラックは撤収された。

 八王寺団地は3棟に分かれ、現在、約60人の同胞が居住している。これは団地住民の約95%にあたる。

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 八幡の同胞社会は、70年代に入り様変わりした。土木・建設主体から、塗装、飲食、金融、遊技業(パチンコ)などを手掛ける同胞が増え、1世から2世へ代替わりし始めた。

 かつては「労働者の街」と呼ばれた八幡、今は「商業の街」へと変わりつつある。

 「トンネの面影はなくなりつつあるが、解放前から助け合い築いた同胞たちのつながり、きずなは、今でも固く結ばれている」(韓相奎さん、76)(この項おわり=羅基哲記者)