わがまち・ウリトンネ(13)/東京・枝川(1) 尹太祚、黄炳哲
五輪理由に朝鮮人を排除/東京都が移転強制
約1200万人の人口を抱える東京。その一角に、いまだにトンネの雰囲気を残す場所がある。江東区枝川1丁目である。
1958年からここに住む尹太祚さん(84)に説明を受けながら、街を案内してもらう。東京朝鮮第2初級学校の裏に長屋のように家々が連なり、朝鮮名と日本
名の表札が入り交じった形で並ぶ。
戦後、同胞らに日用品などを提供するために作られた江東朝鮮人生活協同組合は街の四つ角に健在である。しかし、枝川の人々が「10畳」と呼んだ長屋跡には、戦後からそのままのバラックが多少は残っているものの、ほとんどが新しい家に変わっている。
もともとこの地域は、同胞たちが自然発生的に集まってできたわけではない。
「東京オリンピックの開催が決まり、外国人がたくさん来るということで、朝鮮人はここに追いやられたのです」と尹さんは語る。
事実、東京市(当時)によって、41年に枝川1丁目(当時は深川区枝川町)の一角に朝鮮人集合住宅が建てられたことが枝川トンネのルーツである。
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メモ 1936年7月にベルリンで行われた国際オリンピック委員会(IOC)総会では、40年に開かれる第21回五輪の開催地に東京が選ばれた。同時に万国博覧会開催も予定されていた。
江東区にある塩崎、浜園も会場や関連施設用地とされたため、そこにあった朝鮮人バラックの撤去問題がにわかに注目されることとなる。近くに労働紹介所や宿泊所などがあったことから、30年末にはバラックの住人は1000人を超えていたといわれる。住民は抵抗したが、市当局は沖合の埋め立て地である枝川に簡易住宅を建て、住民を強制的に移転させようとした。
戦争の拡大により、五輪、万博計画は38年に中止されたが、撤去計画は進み、枝川への移転が強行された。
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こうして1000人を超える人々の集落がこつ然と出現する。
「生活環境は最悪であったようだ」と尹氏は語る。当時の枝川は埋め立てを終えたばかりで整備もされず、近くにはゴミ焼却場があり、悪臭とハエなどに悩まされた。排水施設も劣悪で、雨が降ればたびたび浸水した。
そのような所に住まわされながら、同胞らは家賃も払っていた。
「当時は10畳一間で15円、6畳一間で10円だったそうです」(尹さん)
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メモ 41年7月1日東京市発行の「東京市公報」第3444号によると、枝川の簡易住宅使用料は10畳で15円、6畳で10円、4畳半で8円であった。(文聖姫記者)