わがまち・ウリトンネ(14)/東京・枝川(2) 尹太祚、黄炳哲
東京大空襲でも焼失免れ/強制連行者には犠牲者も
枝川トンネの歴史を語るうえで避けては通れない出来事がある。東京大空襲だ。12万人の死傷者を出したこの空襲で江東地域は全滅したが、枝川トンネは奇跡的に焼失を免れた。住民たちが助け合って消火活動を行ったからだ。同胞同士助け合って生きるトンネの良さが発揮されたと言える。
この時、避難してきた多くの日本人被災者を、トンネの人々は温かく迎え、食事や衣類、住まいまで提供したと、当時の状況を知る同胞らは口をそろえる。
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メモ 1945年3月10日未明、アメリカ軍のB29爆撃機296機が東京に対する焼夷弾爆撃を行った。死者約10万人、焼失戸数約27万戸、下町を中心に29区、約4割が焦土と化した。
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東京大空襲では朝鮮人にも多くの犠牲者が出た。江東区にどれほどの朝鮮人が住んでいたかは定かではないが、強制連行されてきた人々も少なくなかったとされる。その一つが石川島造船所だ。現在、石川島播磨重工がある豊洲には第2、第3工場があり、その宿舎に朝鮮人が大勢収容されていた。
今回、枝川トンネの案内役を買って出てくれた尹太祚さん(84)も強制連行体験者だ。
1915年、慶尚北道の貧農の家で生まれた。15歳で父が死亡、母も間もなく亡くなった。25歳で当時の満州へ。そこで3年ほど暮らしたが、再び故郷に戻る。41年に募集事業で福岡県飯塚市の麻生炭坑に送られた。
過酷な労働条件のなかで、尹さんは42年6月のある日、岩に額をぶつける大けがをする。
「18時間以上も意識がなかったのです。気がついたら病院のベッドの上でした」
そんなことがあってから、尹さんは毎日のように逃げることばかり考えるようになる。
そして、とうとう脱走を決行する。同郷の友人に普通学校出身者で日本語の話せる人物がいた。彼と共に炭坑を飛び出した。
「無我夢中でした。昼は見つかると大変なので山に隠れ、夜歩くのです。しかし、お腹はすくし、山道はこわいし、無事逃げることができるのか不安で一杯でした」
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4日間歩いて、脱走に成功する。協和会手帳を新たに作り、知り合いを頼って山口へ。そこで祖国解放(45年8月15日)を迎え、結婚もした。さらに、島根に移り、土木事業を始める。そして、次男が生まれた頃に東京へ移った。東京の方が大きな工事がたくさんあると聞いたからだ。
こうして尹さんが枝川に移ってきたのは58年のことである。それからもう42年の歳月が過ぎてしまった。(文聖姫記者)