この人と語る/酪農家 高橋良蔵さん
食糧不足は未だ解消されていない/日本政府は1日も早く支援を
――深まりゆく秋は、万物の実りの秋でもあります。しかし、朝鮮は、いまだ、この数年来の食糧難から立ち直っていないようです。
9月の中旬から2週間、お国を訪ねました。稲刈りの現場や保育所、学校の教室で学ぶ子供たちを見て歩いたが、相変わらずの食糧不足が続いていた。食べ盛り、育ち盛りの子供たちが食糧不足で栄養状態が悪く、発育が止まり、痩せた子をたくさん見た。国連の調査でも、子供の栄養状態は、悪いと報告されている。
――高橋さんを団長とする日本救済運動委員会のメンバー(農民作家・山下惣一、農政ジャーナリスト・大野和興の各氏ら7人)は、農業のスペシャリストばかり。率直に言って、朝鮮の農業の現状をどう見たのか興味があります。
第1点は、水田稲作は病虫害が多発して大幅な被害減収ばかりでなく、生産が減退したこと、第2点は大型農機具が燃料不足で使えず、耕起も田植えも手労働に逆戻りして、農業生産は大変な打撃を受けたようだ。
95年以来の100年に1度と言われる自然災害から、まだ復興がなされていない。集中豪雨による河川の氾濫でダム、発電所、河川、用水路などが目茶苦茶に被害を被った。さらに、高潮なども重なって田畑の作物は甚大な被害を受けた。
それに加えて、今回、自然災害以上にこの国の農業を苦しめていると私たちが見たのは、輸出国によってピタリと経済封鎖されたため、肥料、農薬、石油などが入らなくなったことだ。そのためにトラクターも田植機も動かなくなって、食糧生産がより困難となり、コメ、トウモロコシも、かつての半減どころか、村によっては3分の1に減収しているところもあった。
天災と経済封鎖の悪循環によって、2000万人の人口を抱える朝鮮が飢餓を生む食糧危機に苦しむようになったと見た。
説明によれば、1人当たりの食料供給は2月・300グラム、4月・200グラム、8月には早獲りしたトウモロコシを粥にして食べているようだった。そのほか、馬鈴薯も配給されているようだ。
今年も8月に700ミリの大雨洪水の被害が出るなど稲の作柄は不良で、食糧不足はまだまだ解消されていない、というのが訪ね歩いた私たちの実感だ。
――まだまだ、苦しい状況が続くようですね。再建の可能性はあるでしょうか。
大いにあります。人間が生きていく上で、最も大切な食糧を生み出す農業。農民たちの置かれた状況は違っても「米をつくりたい」という情熱に国境はない。協同農場のどこを歩いても、「険しい道を笑いながら乗り越えよう」を合い言葉に、「食糧を増産することに生き甲斐を求めながら」、黙々と働いている農民の姿に清々しさを覚えた。幼い学童たちが参加して、広い道路の沿道の両側、10キロもの長い距離に延々とコスモスを植え、色とりどりの美しい花を咲かせていた。
訪問した学校の子供たちも十分な食料がない状態なのに、秩序を乱すことなく、明日に向かって生きており、表情は明るかった。まさしく、「険しい道を笑いながら乗り越えよう」と必死に闘っている姿に、朝鮮民族の英知と逞しさを感じた。
――さっそく、日本に帰った後、緊急アピールを出して、朝鮮への支援米や医薬品を共和国に送るよう呼び掛けておられますね。
子供たちの空腹、栄養失調に苦しむ様子を放って置けますか。不憫でなりません。こんな時だからこそ、獲れたての秋のお米を支援することにしました。もちろん古米でも結構です。一口、おコメ5キロ、お金1000円を寄せてほしいと訴えている。多くの人が、是非参加してほしい。
助けたり、助けられたりする。それが人が生きていく上の基本だ。まして、侵略戦争の責任と償いを未だに果たしていない日本が、いますべきことは、隣国の人々に温かい手をさしのべることです。この四年間、ずうっと支援米を続けてきました。その輪も広がっている。秋田県内には、支援米用の田圃を2ヵ所借りており、100人近い人たちが、田植えから取り入れまで全部やりました。
とはいえ、民間のできることには、限界がある。それでは追いつかない。1日も早く、国交を正常化して、政府もしっかりした本格的な支援体制をとるべきだ。それが、まず日本が取るべき道だと思います。
素顔にふれて/地道にコツコツ交流重ねる
1925年、秋田県に生まれた。74歳。戦前からの農民運動のリーダー。地道な酪農家でもある。実直な人柄を慕う、県内外の仲間は数知れない。町議会議員、県出稼組合書記長を長く務め、農業の傍ら「百姓宣言」などの著書も数多く持つ。
訪朝は、85年、91年、95年に次いで4回目。戦後の日本農業の激変を身をもって体験したことが、朝鮮農業への「応援」に駆り立てている。朝鮮から農業技術者を招いたり、様々な穀物の種や果物の苗木、そして山羊まで贈った。
「戦争、災害…。次々と襲ってくる災難の克服のために、国をあげて必死になって頑張っている姿を見ると応援したくなる」
この春、大病で2ヵ月ほど入院生活を送った。病床から知人たちに送った手紙も、朝鮮への水害支援を訴えるものだった。
日本列島を覆う北朝鮮バッシングは、保守的な日本の農村にも浸透しつつある。訪朝の度に公安が訪ねてくる。執拗な嫌がらせにも負けず、高橋さんは、ひたむきに農作業をやり、その傍ら、朝鮮への支援米の準備に東奔西走している。
温厚な人柄の後ろには、戦争中に軍事訓練を拒絶して、村を飛び出していった、反骨精神が脈打つ。
日朝農業交流は高橋さんを抜きには、考えられない。長年の活動に感謝を込めて、9月、訪朝した高橋さんに、朝鮮政府から親善勲章が贈られた。(朴日粉記者)