朝鮮・真珠池、大城山城を訪れて/歴史研究家 全浩天
奈良・飛鳥庭園池の源は高句麗の古代池にあった
「百済・新羅の興を写す」
烈しく降りそそぐ、せみしぐれを浴びながら松の樹海を歩く。たおやかな帝霊山の山並みに抱かれた東明王陵と定陵寺の西側に真珠池がある。しばらくぶりに訪れた真珠池は、生い茂った古代蓮(はす)の大きな葉を幾重にも浮かべながら真夏の陽光に照りはえていた。
この5世紀の真珠池は東西に長く、南北にやや短い四角形のかたちをしている。池の中央には、草木に覆われた3つの島が蓮の茂みに囲まれながら配置されている。
真珠池のほとりに立つと、去る6月、奈良・飛鳥の都で発掘された日本最古の庭園池をあらためて思い起こさずにはいられない。
「日本庭園のルーツ」と新聞各紙は、この飛鳥の池跡を伝えながら「百済、新羅の興亡を映す」と大書し、朝鮮古代の国である百済、新羅の影響だと報道した。
百済の池は、正方形、長方形であり、新羅の有名な雁鴨池(アンアムチ)は四角形を基本にしながら曲線をとりいれた庭園池であった。
7世紀後半のものであるという飛鳥の庭園池は、四角形を基本にしてカーブをとり入れているため、百済、新羅からの影響であると強調されたのだった。
しかし、このような説明だけで飛鳥のルーツはもちろんのこと百済、新羅の古代池の源流が明らかになるのであろうか。否、これだけでは、古代の日本や朝鮮半島の庭園池のルーツと正体は不明のまま深い霧の中に閉ざされることになる。
伝説に彩られた数々の池が存在
真珠池からピョンヤン市の東に位置する大城山城に足をのばした。ここを訪れるたびに見た古代の池に懐かしい思いをはせながら登った。大城山城の蘇文峰からは悠久の時の流れをきざむ大同江とピョンヤン市街が一望され、眼下には高句麗の王宮である安鶴宮の跡が見える。
蘇文峰と長寿峰のあいだの谷間には、高句麗の古代池が集中している。そこには数々の伝説に彩られた鯉(こい)池、鹿池、長寿池、九龍池、兄弟池など5世紀代の池が永遠の水をたたえていた。
真珠池はもちろん、大城山城の古代池は、池のふちを石垣のようにしっかりと石で築く石築法で整然と造り、その周囲のつつみは崩れないように土を叩きしめて築かれた。また、雨水や湧き水が池に流れ、それらの水があふれでると池の外に流れる流水施設も設けられている。
高句麗の池はすぐれた技術で築造されているが、また、形も正方形、長方形、円形、三角形など様々である。百済、新羅、飛鳥京の庭園池も高句麗に源をもっていたのである。
現在の奈良・明日香村、かつての飛鳥京は、新しい文化を担って百済、新羅からやってきた人々の集中地帯であった。そればかりか、高句麗の資金と建築デザインによって飛鳥寺が建てられ、その最初の住職が高句麗の僧・慧慈(えじ)であったことを思えば飛鳥の庭園池の源流が高句麗であったのはよく理解できる。
(注)真珠池=東西―70メートル、北―90メートル、南―115メートル。
長寿池=東西―15メートル、南北―16.5メートル。