わがまち・ウリトンネ(17)/東京・枝川(5) 尹太祚、黄炳哲


誇るべき学校の存在/次世代に残したい言葉と伝統

 東京朝鮮第2初級学校は枝川トンネを背にして建っている。ここに住む同胞たちに支えられていることを象徴しているかのようだ。

 学校の創立は、祖国解放(1945年8月15日)から約半年後の46年1月15日。枝川をはじめ各地にあった「国語講習所」を母体に「東京朝連学院」として産声をあげる。当時は「隣保館」の中に開設されていた。

 初級部第1期卒業生の洪漢伊さん(65)も、96年5月14日付の本紙インタビューで、「解放後すぐ、隣保館で始まった国語講習所に通った」と語っている。

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 メモ 「隣保館」とは、東京都協和会が枝川の朝鮮人集落を徹底的に皇民化すべく、住宅のそばに建てたもの。集落の住人に精神訓話を施し、女性たちに日本式の礼法や裁縫を教えた。保育園を設けて幼年期から皇民精神を植えつけようともした。

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 48年5月、名称を「東京朝連第2小学校」に改める。東京都立学校に強制移管させられた時期を経て、55年4月から東京朝鮮第2初級学校になった。

 尹太祚さん(84)によると、多くの同胞が帰国していった60年代初め頃から、学校を建て直す話が持ち上がり始めたという。それまで校舎として使われていた「隣保館」が老朽化し、雨が降れば床が水浸しになるなど授業どころではなくなっていたからだ。

 「設計以外の作業は私たちの手で行いました。みな仕事をもっているので、夕方や休みの日に集まって作業しました。もちろん、みな手弁当でした」

 尹さんたちをかきたてた物はただ1つだ。子供たちが日本に住みながらも母国の歴史や言葉を忘れないようにとの願いである。こうして64年2月、同胞らの手になる新校舎が完成した。

 そんな尹さんだからこそ、今、同胞たちの間で朝鮮語があまり話されなくなったことには一抹の寂しさを感じざるを得ない。

 「時代が変わったから仕方がないと言えばそれまでですが、やはり民族の伝統、言葉は守っていくべきではないでしょうか」

 これには在日2世の黄炳哲さん(45)も同感だ。

 「異国の地で学校を作り、言葉を教えているのは誇るべきことです。最近は地域で行う祖国解放記念の夜会などに南朝鮮から来た人々も顔を出すことがありますが、彼らが異口同音に称えるのは朝鮮学校の存在です」。3世、4世の代になっても言葉が守られていることに、同じ民族として誇りを感じているようだ、という。

 「1世に育てられた私たちが子供たちに何を残せるのか。そのためにはやはり、教育が大切ではないでしょうか」(この項おわり=文聖姫記者)