わがまち・ウリトンネ(18)/広島・基町(1) 文正男、南炳鎮
原爆の焼け跡に密集/太田川の土手筋に並ぶバラック
広島市中区の白島に高層アパートが建っている。県営長寿園アパートだ。100人ほどの同胞が住むとされる。そびえたつ高層住宅からトンネの雰囲気を想像するのはたやすくない。だが、かつてはどこかしらの家に同胞が集まり、終始にぎわいを見せていたという。
文正男さん(72)、南炳鎮さん(66)夫妻は住宅が建築された当初からの住人だ。祖国解放(1945年8月15日)直後から市内にいた。近辺の同胞の歴史は生き字引のように知っている。
夫妻によると、解放を経て朝鮮戦争(50〜53年)が始まった頃から60年にかけて、同胞たちが多く住んでいたのは、白島ではなく、基町であったという。
「もともとここには軍の練兵場がありました」と文さんがいうように、戦前、基町一帯は広島西練兵場だった。近くの広島城内には第5師団司令部が置かれていた。
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メモ 1871年に旧広島城内に設置された鎮西(九州)鎮台(明治前期の陸軍の軍団)第1分営は、88年、第5師団に改称される。94年、清日戦争勃発と同時に、同師団は先陣を切って派兵された。
広島は兵士、物資の輸送基地と化した。同年9月には、最高司令部である大本営が東京 から広島城内に移され、明治天皇も翌95年4月までここに滞在した。
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同胞らが多く住んでいたのは市内中心を流れる太田川(本川)の土手筋。「原爆スラム」と呼ばれた所だ。
「原爆ドームの手前にある相生橋から三篠(みささ)橋の間にスラム街がありました。原爆の焼け跡にトタン屋根のバラックを建てて住んだんです」と南さん。文さんは、「庄原市、山県郡の千代田町や加計町など県内から続々同胞たちがやってきました。中には大阪から来た人もいましたね。バラックなら安く作れたんです」と話す。
当時、ほとんどの同胞が市の失業対策による日雇いの仕事をしていた。「確か初めは日給が120円、53年から180円になったと思います」(文さん)。
中にはどぶろく造りや土木などに従事する人もいた。文さん夫妻はどぶろくの麹(こうじ)造りをしていたが、商売ができる人はまだましな方だった。
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メモ 45年8月6日午前8時15分、広島に原子爆弾(ウラン爆弾)が投下された。
当時、広島には40万人前後の人々がいたと考えられているが、12月末までに約14万人が死亡した(推定)。
市内には朝鮮人が5万3000人いた(推定)と言われる。
うち被爆者は4万8000人。1年以内の死者、行方不明者は合わせると3万人にものぼっ た。(文聖姫記者)